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上田城攻防戦

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第一次上田城攻防戦 天正13年

 徳川家康上杉景勝の信濃の国をめぐっての争っていたころ、真田家当主の昌幸は強国に挟まれていた状態で、最初は徳川に恭順していた。しかしながら、家康が真田の沼田城を北条に明け渡すように言われると、怒って徳川家の傘下から上杉へと移った。当然、上杉の背後には豊臣秀吉という力強いバックボーンがいる。
当時、国境にいる小大名がそのとき、そのときで領主を変えるのは珍しいことでも恥じることでもなく、乱世を生き抜くためにはこうした処世術が必要になるわけだが、徳川家康にしてみれば、見逃すことは当然出来ない。他の小大名達に伝染しても困る訳で・・。
1585年7月下旬に軍勢を整えて出陣。このとき、家康も出陣する予定であったようだが、日頃の悪さが祟ってか、病気で生死の淵を彷徨っていたらしい。

 このときの両軍の兵力だが、真田の3000に対して徳川勢は約8000と言われているが、どうも疑わしいようで最低でも徳川勢は10000を超えていたのではないかと言われ始めている。
というのも城攻めをするには少なすぎる兵力だからだ。この第一次上田城攻めは大失敗に終わっていることから、『負けてもしかたなかった』と思わせるためだろうとしている。
 確かに後の第二次上田城攻めは40000近くで取り囲んでいるし、その他の攻城戦においても約5、6倍以上の兵力で攻めるのが常套だった。 (本当は家康も出陣していたのかも・・

近畿百選を訪ねてウォーク

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近畿ウォーキング主催、2016年2月2日
近畿駅百選訪ねて、16K

花園駅下車(太秦安井公園)9時42分


京福御室駅、10時06分


相対式2面2線ホームを持つ列車交換が可能な地上駅北野白梅町駅方面行きホームにのみ駅舎がある。駅舎には改札口や出札口もあるが、現在は無人駅であり通常は使用されていない。だが、仁和寺の「さくらまつり」の時期など、特に混雑が予想される場合は、集札業務を行うこともある。この場合、改札口にスルッとKANSAI用のカード読み取り機が設置される。なお、出札口は「のりばご案内」の掲示板で塞がれている。駅舎正面に掲げられた額には御室仁和寺駅に改称になったあとも「驛室御」と旧字体・右横書きの旧駅名が掲げられたままである。


妙心寺10時11分
妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。


妙心寺トイレ。10時13分~24分

JR円町。10時41分

JR二条。11時09分

二条城前トイレ。11時16分~11時21分

烏丸御池。11時38分~40分

京都市役所前、11時51分~11時58分

岡崎公園。12時23分~13時09分昼食
 明治28年,第4回内国勧業博覧会跡地に道路を開き,平安神宮に寄付した残地に花木を植え,公園地に指定して岡崎公園が生まれました。
 東山及び比叡山を背景とし,東には南禅寺,永観堂があり,平安京の大極殿を模した平安神宮を北に配し,また,動物園が公園の東側に位置し,極めて環境に恵まれた公園です。

円山公園、13時23分~31分
 本市における最も古い公園で,明治19年12月には太政官布告に基づき公園地に指定され円山公園として誕生しました。その後,明治22年,市制施行時に京都府から京都市に移管され現在も管理しています。
 その後,明治45年までの間に公園を拡張,自然の丘陵を利用した渓谷を造り,四季の草花を植樹,池や噴水の建設,野外音楽堂※1の建設を行い,現在の円山公園の姿ができ上がりました。
 東は東山に続き,西は八坂神社,南に高台寺,北は知恩院等の豊かな樹々の茂る境内地に隣接し,観光地の一環を成しおり,自然の丘陵を利用して回遊式日本庭園を模して造られたこの公園は,そのサクラとともに市内随一の行楽地となっています。

建仁寺、13時45分
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。

京阪清水五条。14時01分解散




清原和博覚せい剤所持で自宅で逮捕

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清原容疑者 逮捕後に病院診療

2016年2月3日(水) 8時32分掲載

清原容疑者 自宅で逮捕後、病院診療受ける

 元プロ野球選手の清原和博容疑者(48)が2日夜、東京・港区の自宅で覚醒剤を所持していたとして逮捕された。(日本テレビ系(NNN))


清原容疑者 自宅で逮捕後、病院診療受ける
日本テレビ系(NNN) 2月3日(水)5時15分配信
 元プロ野球選手の清原和博容疑者(48)が2日夜、東京・港区の自宅で覚醒剤を所持していたとして逮捕された。

 警視庁によると、逮捕された元プロ野球選手の清原和博容疑者は2日午後9時前、港区東麻布の自宅で覚醒剤の粉末0.1グラムを所持していた疑いがもたれている。

 自宅で現行犯逮捕された清原容疑者は、東京・中野区の病院で診療を受けたあと、3日未明、勾留先の警視庁本部に戻った。

 清原容疑者は調べに対し、「覚醒剤を所持していたことで逮捕されましたが、私のものに間違いありません」と話し、容疑を認めているという。

 警視庁はこれまで、清原容疑者が覚醒剤を使用している可能性があるとみて内偵捜査を続けていたもので、今後、覚醒剤を使用していたかや入手ルートなどを調べることにしている。
最終更新:2月3日(水)9時26分

尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛相)

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尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)
尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)
[約1万人が働く防衛省は、尾張藩尾張徳川家上屋敷跡にあります。明治7 年(1874)からは陸軍士官学校_(日本)などが置かれ、戦争中は陸軍省にもなりました。戦後は陸上自衛隊の駐屯地となり、平成12 年(2000)から防衛庁(現・防衛省)に。旧陸軍士官学校本部が「市ヶ谷記念館」として残されています。  (「由緒ある町名や坂が残るまち 市谷」より)]
[明暦の大火後、尾張徳川家の広大な上屋敷が現在の防衛省などの場所にやってきた。すると、寂しかったこのあたりは、茶屋や芝居小屋なども立ち並び、賑わいの一角となった。この絵は、市ヶ谷見附の土橋の一部を右下に置き、八幡宮と、現靖国通りと外堀通りが交わる場所に位置する門前町を緻密に描いている。中央左端に尾張家上屋敷の白壁と火の見櫓がちらっと見える。 
さて、江戸図を見ると、尾張家をはじめ、徳川御三家の屋敷はどれも別格の広さであったことがわかる。 これら御三家の屋敷は、当初は江戸城内、のちの「吹上げの庭」に、3軒が仲良く並んでいた。 しかし、明暦の大火(1657)後の区画整理で、御三家の屋敷は江戸城外へと移され、外堀の西北の外周に一定区間をあけて配置された。大名屋敷の跡地は、明治になると新政府に摂取され、政府の施設や練兵場、諸外国の大使館用地などに転用されたが、中でも、御三家の敷地はその後も特別扱いを受けてきたのだろう、今もなお、その敷地跡が当時とほぼ同じ面積で活用されている。惜しむらくは、小石川後楽園赤坂御所の一部を除き、白壁や石垣など、江戸時代の遺構が殆ど残っていないことだ。  (「広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map」より)]

秀吉の妻子

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妻子[編集]

絵本太閤記』・『新書太閤記』によると、秀吉は故郷の尾張を離れた後、浜松頭陀寺城主・松下之綱に仕えた。之綱は秀吉を気に入り、家臣の娘で美人のおきくという女性を選び、結婚させた。しかし、おきくは秀吉を嫌い、秀吉が尾張へ向かう際に離縁したといわれている。そのため、秀吉は高台院とは2度目の結婚であり、高台院の生母・朝日殿が結婚に反対した理由のひとつともいわれている。

養子[編集]

養女[編集]

北政所の親族
夫: 豊臣秀吉父: 杉原定利母: 朝日殿兄: 木下家定姉: 長慶院妹: 長生院養父: 浅野長勝養母: 七曲殿姑: 大政所

淀殿
淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)?[1][2] - 慶長20年5月8日1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉側室[3]位階従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。

南の局
南の局 / 南局(みなみのつぼね、生没年不詳)は、鳥取城主・山名豊国(禅高)の娘。豊臣秀吉の側室。名はあかね

猶子[編集]

薩摩屋敷

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    芝から渋谷へ! 江戸の薩摩屋敷跡を歩

                             お屋敷町の雰囲気たっぷりの三田
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    桜田通りから古川をまたぐ二の橋を渡る。
    現在放送されているNHK大河ドラマ「篤姫」にまつわる散歩に出かけてみた。
    前回の「大久保利通の暗殺現場、紀尾井坂を歩く」と併せて読んでいただければありがたい。
    さて、今回の散歩のスタート地点は南北線、大江戸線の麻布十番駅である。
    もちろん、薩摩藩上屋敷には都営三田線あるいは都営浅草線の三田駅、JRの田町駅が近いのだが、
    麻布十番駅から歩くとお屋敷町の様子がよくわかっておもしろい。
    まずは、桜田通りを二の橋まで歩く。

    日向坂をのぼっていく

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    広くて歩きやすい舗道の日向坂。
    二の橋を渡って、日向坂をのぼると、かつてのお屋敷町の感覚がわかる。すでに住所は三田である。
    ちょうどオーストラリア大使館の敷地が江戸切り絵図を見ると島津淡路守の屋敷となっている。
    島津家の支藩で日向佐土原の江戸屋敷だったのだ。
    それで日向坂というのかと思ったら、新しく建てられた標識には、江戸前期、南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があったことでこの名前がついたとある。

    素敵な洋館「網町三井倶楽部」

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    残念ながら一般公開はされていない網町三井倶楽部。
    日向坂をのぼっていくと洋館がある。網町三井倶楽部だ。あの鹿鳴館を設計したイギリス人のジョサイア・コンドルによるものだそうだ。
    ここを左側に曲がると下り坂がある。網坂という。
    この坂はずっと網町三井倶楽部の塀が続いている。
    かつての大名屋敷がいかに広大であったかということを感じることができるだろう。
    網坂をくだると左手にイタリア大使館、慶応大学などがある。
    お昼をまだ食べていなかったので、お腹が空いてきた。
    と、なにやら行列が。ああ、そうか、これはきっと「ラーメン二郎」三田本店だろう。
    ああ、初めてきたぞ。ちょっと寄っていこう。

    というわけで、「ラーメン二郎」三田本店の写真は次ページへ!

    ラーメンより薩摩屋敷跡を見たいという人は次々ページへ!

    安政2年(1855)12月に決まり、婚礼準備も急ピッチに進められたが、その直前の10月に、江戸を襲った「安政の大地震」で、総てを失ってしまったのである。江戸城の石垣崩落し、本所、深川を中心に死者4300人、倒壊家屋10、000戸と言われる大きな地震で、徳川斉昭の懐刀藤田東湖もこの地震で亡くなる。この地震により、既報の通り更に輿入れは延期され、此処、三田薩摩藩上屋敷も大きな被害を受けてしまった。更に当時、江戸を恐怖に包んだ黒船来航により、海に近い上屋敷は黒船からの砲撃を受ける可能性もあると嫁ぐ前の篤姫を避難をかねて 渋谷別邸に移すのである。Img_093511111111


    第4回 伏見の龍馬(2)

    ~寺田屋における龍馬の負傷と伏見薩摩屋敷への逃走劇~

    特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章
    龍馬が兄権平宛に慶応2年(1866)12月4日付けで差し出した、一年間に起こった出来事を報告する手紙のなかに襲撃の様子が詳しく書かれています。前回、材木納屋に到るまでの部分を紹介いたしました。今回は、龍馬と共に寺田屋で襲撃を受けた長府藩士三吉慎蔵の日記を読んでみましょう。龍馬とは違う目で見た臨場感が伝わってきます。

    戦国時代の合戦

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    戦国時代合戦

    土佐藩

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    土佐藩基礎知識年表&日誌土佐藩人名録余話等HPトップ

    幕末土佐藩


    【かけあし事件簿】

    前史
    ■山内土佐藩の誕生
    戦国時代、土佐は長宗我部氏に支配されていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に就いたため領地を没収された。代って、東軍の遠江掛川(5万石)領主山内一豊が土佐藩主に任命された。土佐藩の石高は表高20万2,600石余だが、幕末には実高は約50万石となっていた。
    13
    豊煕
    天保・
    弘化・
    年間
    ■天保の庄屋同盟
    諸藩の例にもれず、土佐藩においても天保期には藩の財政は悪化し、毎年銀約千貫の赤字を出していた。士民の生活も窮乏していた。天保12年(1841)には、細木庵常を中心として天保庄屋同盟が密に結成された。彼らは日本の総主は天皇、代官は将軍、組頭は大名、庄屋は小頭だと位置づけ、庄屋も天皇に直属して土地人民を預かる職だという点では大名と同じだと考えていた。この庄屋同盟の精神が土佐藩における勤王運動に引き継がれていったといわれている。

    ■13代豊煕と土佐藩の天保改革
    天保14年(1843)3月、12代豊資の隠居に伴い就封した13代豊煕が天保の藩政改革を推進し、弘化年間にかけて倹約の励行・役所冗員の整理・士風振興・西洋砲術の導入などを行った。しかし、保守派の抵抗も大きく、馬淵嘉平ら新進改革派(「おこぜ組」)は異学信奉を理由に処断されたし、豊煕が目をかけた吉田東洋も郡奉行・船奉行に就いたものの、病を得たこともあり、力を振るえなかった。【関連:「開国開城-天保年間:開国前夜」】(「余話」「おこぜ組の獄」)
    15
    容堂
    嘉永
    年間
    ■15代容堂の就任
    嘉永元年(1848)7月、豊煕(34歳)が江戸で病死した。夫人(島津斉興の娘で斉彬の妹)との間には実子がおらず、14代藩主には実弟の豊惇(25歳)が就いた。ところが、その豊惇も、幕府に家督相続を認められての帰国途上、嗣子のないまま急死した。このままではお家とりつぶしである。土佐藩では豊惇の死去を隠したまま分家南屋敷の容堂(豊信)を豊惇の養嗣子とし、豊惇の隠居と容堂の家督相続が幕府に願い出た。その結果、同年12月、容堂は15代藩主に就任した。実は豊惇の死去は公然の秘密であり、幕府が容堂の就任を認めたのは、首席老中阿部正弘に対して、縁戚の薩摩藩島津斉彬らが裏工作したことが功を奏したのだという。

    のちには幕末四賢候と称される容堂だが、襲封当初は、保守的な隠居豊資が健在で、自主的な政策は行えなかったという。夫人には右大臣三条実万の養女正姫を迎えたが、嗣子は豊資の末子豊範(のち16代藩主)と定められた。

    ■ジョン万次郎の帰国
    嘉永5年(1852)7月、中浜出身の漂流者ジョン万次郎が帰国した。高知では大変な歓迎を受け、山内家一門・連枝・家老などに招かれたという。東洋も万次郎を自宅に招いたらしい。

    ■黒船来航・鎖国と海防強化を具申
    嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊提督ペリーの率いる軍艦4隻が浦賀沖に来航し、開国を要求した。この時、首席老中阿部正弘は慣例を破って幕臣・諸候に対策を諮問したが、容堂は、東洋(当時大目付)の草案に基づき、開国拒否と海防強化(オランダ技術者を招いて軍艦・大砲製造)を具申した。【関連:「開国開城:開国勧告とペリー来航予告」 「ペリー来航」

    藩政改革と吉田東洋・小南五郎右衛門の起用
    同年9月、容堂は隠居豊資の同意を得て藩政改革を宣言した。改革にあたっては東洋(38歳)を参政(仕置役)に、小南五郎右衛門(41歳)を側用役に抜擢した。
    安政1
    (1854)/
    安政5
    (1858)
    東洋の失脚
    安政元年(1854)6月、東洋は不敬の罪で参政を罷免され、8月には録没収の上、追放を命じられた。失脚した東洋は鶴田に閑居し、「少林塾」を開いた。門下には後藤象二郎(東洋の義理の甥)・福岡孝弟・神山左多衛・間崎哲馬・岩崎弥太郎などが集まった。(「余話」「容堂と藤田東湖の腕相撲」「吉田元吉頭もこくが・・・」)

    一橋慶喜の擁立運動
    安政元年(1854)、ペリーが再来し、日米和親条約が結ばれた(こちら)。安政3年(1856)には総領事ハリスが来日し、通商条約(実質的な開国)を強く迫った。開国やむなしとする幕府は反対意見を抑えるために勅許を得ようと考えたが、孝明天皇の強い意志もあり、工作は難航した。このような非常時にあって時の将軍家定は病弱で実子もなく、後継者選びは幕府の重要課題であった。将軍後継には、英明だと評判の一橋慶喜(徳川斉昭実子・21歳)を擁立する一派(一橋派・幕政改革派)と現将軍との血縁の濃さを重視して紀州藩徳川慶福(家茂:12歳)を擁立する一派(南紀派・保守派)が鋭く対立した。外様藩主である容堂は、本来将軍後継について意見する立場ではなかったが、松平春嶽(越前藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)伊達宗城(宇和島藩主)らとともに慶喜擁立運動に参加し、越前藩の橋本左内と連携しながら縁戚の三条家を通して条約勅許獲得の朝廷工作を行った。しかし、安政5年(1858)4月、南紀派の彦根藩主井伊直弼が突如大老に就任し、5月、慶福(家茂)が後継に指名されて一橋派は敗北した。また、6月には勅許を待たずに条約に調印し、7月には井伊を批判するために不時登城した一橋派大名に隠居・謹慎などの処分を下した。【関連:「開国開城:将軍後継問題と条約勅許問題」】(「余話」「容堂の大坂焼却論」を予定)
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    豊範
    安政6
    (1859)
    容堂の隠居・謹慎16代藩主豊範就任
    翌安政6年(1859)2月、容堂は大老井伊に圧力をかけられて隠居し、16代藩主には豊範(15歳)が就いた。10月、容堂は朝廷と通じて幕議に逆らったとして謹慎を命じられ、文久2年(1862)4月に赦されるまで品川の鮫州(さめず)別邸に幽居した。

    ■東洋の藩政復帰
    この土佐藩の非常時に藩政を任されていたのが安政5年(1858)1月、家老福岡宮内・側用役小南五郎右衛門の尽力で参政に復帰した東洋である。東洋は大老井伊による一橋派処分が始まり、容堂も安泰ではないと察すると、江戸に上って容堂の隠居・豊範の家督相続が無事にすむよう周旋した。無事に隠居・家督相続が認められると、次に補佐をした家臣の罪を問い、小南を家禄没収・追放にするなど要職の処分を行った。平尾道雄氏(『吉田東洋』)によれば、この処置は幕府の干渉を避けるために容堂東洋が予め決め置いた手段であり、結果、土佐藩士は安政の大獄による責罰を受けることがなかった。
    【関連:「開国開城-戊午の密勅と安政の大獄」】

    ■東洋の藩政改革(安政6~文久2)
    東洋容堂の信頼を背景に若年の豊範の補佐を務め、文久2年(1862)4月に暗殺されるまで、様々な藩政改革を行った。その中には、身分制度の厳しい土佐藩の武家格式の簡素化、教育・海防の振興(大坂警備のための住吉陣営建設、上士だけでなく下士・軽輩にも開かれた藩校文武館の建設、洋式銃砲の購入など)、西洋技術の導入(藩士の長崎・薩摩遊学、山田馬次郎の万延元年遣米使節への派遣、藩校での洋書教授など)等が含まれる。(「余話」「東洋の航海遠略策」)

    また、東洋は改革実行のため、人材登用を積極的に行った。後藤象二郎・福岡孝弟・板垣退助(乾退助)などが頭角を表したのもこの頃である。しかし、隠居豊資の支持を背景に改革に反発・抵抗する保守派は、東洋ら改革派を「新おこぜ組」と呼んで敵視した。
    万延1
    (1860)
    ■容堂、文通・面会を許される
    万延元年3月、桜田門外の変が起り、大老井伊直弼が暗殺された。9月、幕府は容堂の謹慎を解いた。ただし、対面・文通の自由は認められなかった。
    文久1
    (1861)
    ■土佐勤王党の結成
    文久元年8月、白札(上士と下士の中間)武市半平太(瑞山)が土佐勤王党を結成した。江戸に遊学していた武市は住谷寅之介(水戸)、樺山三円(薩摩)、久坂玄瑞(長州)ら諸藩の尊攘激派と知り合い、土佐藩でも同志を組織化しようとしたのである。旧知の坂本龍馬・平井修次郎を含め、190余名が加盟し、一大勢力となった。土佐勤王党は大部分が郷士を中心とする下士と庄屋であった。

    ■勤王党の挙藩「勤王」と東洋・容堂の公武合体の対立
    勤王党の課題は挙藩勤王(攘夷)だった。これは薩長の同志との密約だった。半平太は薩長に遅れぬよう藩庁に重ねて進言したが、東洋は書生論として退けた。東洋は容堂同様、開国・公武合体を支持しており、藩政改革もその方針にそって行っていたからである。
    文久2
    (1862)
    ■坂本龍馬・吉村虎太郎の脱藩
    島津久光の率兵上京の知らせが届き、坂本龍馬・吉村虎太郎が相次いで脱藩した。

    ■東洋の暗殺と藩庁の刷新(改革派後退)
    東洋主導の藩政改革は保守派の抵抗にあいながらも着実に進んでいた。文久2年に入って、2月に文武館が完成し、3月には文学・武芸の芸家世襲制度が廃止され、諸士の格式・身分制も改められた。4月5日には文武館で始業式が行われた。しかし、東洋を邪魔者とみなす武市は保守派と結託し、8日、刺客を送って東洋を暗殺してしまった。藩法によって家名は断絶となった(涙)。東洋の死後すぐに、保守派・勤王党の工作によって藩庁からは改革派が退けられ、保守派が実権を握った。

    麻田藩

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    麻田藩


            
    麻田藩(あさだはん)は、江戸時代摂津国豊島郡川辺郡などを領有した。藩庁は豊島郡麻田村(現在の大阪府豊中市蛍池)の麻田陣屋。藩主は外様大名青木氏。初代藩主は青木一重表高元和元年(1615年)の立藩時には1万2千石で、元和3年(1617年)までに一重は旗本で弟の可直に2千石を分知したため1万石となった。

    概略

    青木氏の出世

    文久3年(1863年)の古文書によると、家臣数は110人近くだったという。初代藩主青木一重の父重直美濃国出身で、美濃の守護大名土岐頼芸に仕え、後に斎藤道三織田信長豊臣秀吉の下へ仕えた。その子の一重も今川氏真徳川家康丹羽長秀豊臣秀吉に従った。
    一重は今川氏没落後は徳川家康に仕え功績を上げていたが三方ヶ原の戦いで家康から離れている。徳川家康にとって大きな敗戦をきした元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは本多太郎左衛門に従って出陣し高天神城の守備にあたった。しかし天正元年(1573年)に徳川氏の元を出奔し織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父重直を頼った。この戦いで弟の重経は敗走中の家康について武田勢を食い止めるために戦い討ち死にしたがこれが家康から距離をとる原因だったかもしれない。家康の記憶に青木重経の死は残っておりこれが最後まで秀吉側についた一重が麻田藩藩主に出世することに繋がったと考えられる。
    織田信長の死後も父重直とともに信長の家臣である丹羽長秀についてその長秀の死後は羽柴秀吉の家臣となった。重直は御伽衆となり文禄2年(1593年)、摂津国豊島郡のうちで1400石を与えられ、のち菟原郡で360石を加増されたがこの頃に出家している。
    慶長19年(1614年)大坂冬の陣青木一重豊臣方の和議の使者として駿府に下向したが、その帰途京都で拘禁され徳川方の捕虜となったことで旧主家康の軍門に下り、所領として摂津国豊島郡・菟原郡および備中国伊予国にも所領を与えられ外様大名となった。

    麻田藩立藩

    元和元年(1615年)摂津 豊島郡川辺郡の一部1万2,000石で青木一重を藩主として成立した。表高は、元和3年(1617年)までに一重は旗本で弟の可直に2,000石を分知したため1万石となった。
    元和5年(1619年)一重は徳川幕府への配慮か旗本で弟の可直の子青木重兼(まだ15にも満ていない)を養嗣子にして跡を継がせた。同じく一重の養子で廃嫡された青木正重寛永年間(寛永は1624年から1645年)重兼を補佐した。寛永3年(1626年)には菟原郡および伊予国の所領は摂津国豊島郡・川辺郡に移された。
    青木重兼には娘しかおらず松平氏徳川氏の最古参の譜代筆頭である酒井氏越前朝倉氏の血をひく重正を養嗣子とし寛文12年(1672年)第3代目とした。大番頭や側衆を務めて、徳川綱吉から厚い信任を受けた。元禄6年(1693年)8月15日に69歳で亡くなる直前、綱吉から侍医の森雲仙らを派遣されて診療されていることが、それを示していると言える。跡を次男の重矩が継いだ。
    寛文年間(寛文は1661年から1672年)、黄檗宗仏日寺の伽藍建築に莫大な経費をつぎ込んだため、藩財政は窮乏した。徳川氏との繋がりを確固たるものにするためだったのだろうか。酒や油などの必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じたが効果がなく、のち藩札の管理は領民に委ねられた。
    明治4年(1871年)に廃藩置県を迎え、藩主家は華族に列す。麻田藩は麻田県となり、明治4年(1872年)に大阪府に編入された。藩主家は明治17年の華族令で(1884年)に子爵に叙爵された。

    歴代藩主

    外様 1万2千石 (1615年 - 1871年)
    1. 一重(かずしげ)〔従五位下・民部少輔〕
    2. 重兼(しげかね)〔従五位下・甲斐守〕
    3. 重正(しげまさ)〔従五位下・甲斐守〕
    4. 重矩(しげのり)〔従五位下・甲斐守〕
    5. 一典(かづつね)〔従五位下・甲斐守〕
    6. 一都(かづくに)〔従五位下・出羽守〕
    7. 見典(ちかつね)〔従五位下・内膳正〕
    8. 一新(かづよし)〔従五位下・美濃守〕
    9. 一貫(かづつら)〔従五位下・甲斐守〕
    10. 一貞(かづさだ)〔従五位下・甲斐守〕
    11. 重龍(しげたつ)〔従五位下・駿河守〕
    12. 一興(かづおき)〔従五位下・美濃守〕
    13. 一咸(かづひろ)〔従五位下・甲斐守〕
    14. 重義(しげよし)〔従五位下・民部少輔〕

    青木家、麻田藩の墓

    仏日寺=大阪府池田市畑1-18-17

    青木一重(かずしげ)

    青木重兼(しげかね)

    青木重成(しげなり)

    青木重矩(しげのり)

    青木一典(かずつね)

    青木一都(かずくに)

    青木見典(かずつね)

    青木一新(かずよし)

    青木一貫(かずつら)

    青木一貞(かずさだ)

    青木重竜(しげたつ)

    青木一興(かずおき)

    青木一成(かずひろ)

    青木重義(しげよし)



    北朝鮮ミサイル発射

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    今日、北朝鮮がミサイルを発射した 

    北がミサイル発射 政府発表

    2016年2月7日(日) 9時43分掲載

    「北朝鮮がミサイル発射」 Jアラート

     政府は7日午前9時34分、全国瞬時警報システム(Jアラート)を通じ、「北朝鮮からミサイルが発射された模様」と発表した。対象地域は「沖縄県」としている。(産経新聞)


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     政府は6日、北朝鮮が「人工衛星」と称する弾道ミサイルの発射期間について、当初の今月8~25日から7~14日に変更する旨を各国や国際機関に通報したと発表した。午前7時から正午(日本時間午前7時半から午後0時半)とする発射予告時間帯や飛行予定区域に変更はないという。
     国土交通省によると、北朝鮮は6日午後0時54分、「人工衛星」と称するミサイル発射の期間を一部変更するとの航空情報を出し、国際民間航空機関ICAO)にも通告。官邸関係者は期間の変更について「7日は(発射に影響を与える)風が弱い」と分析し、8日以降は発射場付近の天候が悪化するとの情報もあるという。政府は早ければ7日の発射もあり得るとみて警戒を強めている。
     政府は6日、「北朝鮮情勢に関する官邸対策室」で情報を集約し、関係省庁の局長級会議で対応を協議。各都道府県にも発射期間の前倒しを連絡した。外務省も同日午後6時、岸田文雄外相を長とする緊急対策本部を設置し、情報収集に当たった。官邸幹部の一人は「北朝鮮は最初から(各国を)攪乱(かくらん)させようとしているのではないか」との見方を示した。
     防衛省では6日夜、中谷元防衛相や河野克俊統合幕僚長らが幹部会議を開いた。日本に機体や破片が落下する可能性に備え、すでに海上配備型迎撃ミサイル(SM3)搭載のイージス艦3隻を日本海や東シナ海に派遣。地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)を首都圏と沖縄本島石垣島宮古島に配置する。中谷氏は6日夜、「7日朝までにイージス艦、PAC3の態勢が整う。(前倒しの)意図は分からないが、緊張感を持って情報収集・警戒監視に努める」と記者団に語った。
     北朝鮮が2日に国際海事機関(IMO)に通告した資料によると、機体の落下予想海域はそれぞれ、1段目が韓国南西部・全羅道の西方沖、「衛星」をカバーする先端部が韓国済州島の西方沖、2段目がフィリピン・ルソン島の東方沖となっている。
     米国防当局者によると、北朝鮮では4日以降、北朝鮮北西部、平安北道(ピョンアンブクト)・東倉里(トンチャンリ)の発射場で弾道ミサイルの燃料注入の動きが確認されていた。北朝鮮は2012年12月にも長距離弾道ミサイルの発射実験を行い、先月6日には4度目の核実験を実施している。

    関西の陣屋跡

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    :陣屋 ( 16 )

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    バナナの黒い斑点で癌発見

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    バナナの黒い点でがん発見?

    2016年2月9日(火) 15時39分掲載

    バナナの黒い点、皮膚がん早期発見に一役 研究

    【AFP=時事】バナナの皮の黒い点が、皮膚がんの早期発見に役立つかもしれない──。8日の独科学誌「応用化学(Angewandte Chemie)」に掲載された研究論文によると、バナナの皮を活用することによって、皮膚がんのより簡単な診断が可能となり、患者の生存率上昇も期待できるという。(AFP=時事)
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    鎌倉の歴史上人物

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          鎌倉の歴史上の主な人物

          源氏系図   北条氏系図
    1.名前で探す
    文字列     鎌倉の歴史上の主な人物
    あ~お
    安達盛長
      安達景盛   安達泰盛  足利尊氏  足利直義  

    足利貞氏  足利持氏 足利義兼 上杉憲方  阿仏尼  

    運慶  一幡  栄西   一遍上人  大江広元
    か~こ梶原景時  木曾義仲  木曾義高  九条兼実  公暁

    後白河法皇  後鳥羽上皇  上総介広常  後醍醐天皇

    覚山尼

    さ~そ静御前  島津忠久
    た~と平清盛  平重盛  平維盛  千葉介常胤   退耕行勇 

    平頼綱

    な~の日蓮上人  新田義貞  忍性
    は~ほ比企能員  畠山重忠  北条政子  北条時政北条義時  

    藤原秀衡
      藤原頼経  北条経時  北条泰時 北条重時 

    北条時房 北条時頼 北条長時 北条政村 北条時宗

    北条宗政 北条貞時
      北条高時  日野俊基  文覚上人
    ま~も源頼朝  源義経  源範頼  源頼政  源頼家  源実朝  

    源義朝
      源義家  源義光  三浦義明  三浦泰村三浦義澄 

    三浦義村  以仁王  毛利季光  護良親王  無学祖元 

    夢窓疎石  正宗
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    源頼政  源頼家 九条兼実 平清盛  似仁王 足利義兼

    千葉介常胤 公暁 一幡  源実朝 北条政子 北条時政

    北条義時 静御前大江広元藤原秀衡源義朝

     島津忠久 栄西
     源義家 源義光  運慶 後白河法皇

     後鳥羽上皇 退耕行勇
     上総介広常 文覚上人

    鎌倉幕府、北条氏の時代


        
    条氏系図
    藤原頼経 北条経時  北条泰時 北条重時 北条時房 

    北条時頼
     北条長時 北条政村 北条時宗 北条宗政 

    安達泰盛
     日蓮上人平頼綱  安達景盛

    冷泉為相
     毛利季光 阿仏尼 北条貞時
      
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    太平記の時
    北条高時新田義貞 後醍醐天皇 足利尊氏 日野俊基

    足利直義 護良新王 足利貞氏 上杉憲方 足利持氏
    北条時宗の時代北条時頼) (北条時宗) (安達泰盛) 一遍上人

    覚山尼 (日蓮) 無学祖元 夢窓疎石

    日蓮上人の時代北条時頼) (北条時宗)

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    gtop2222さん
    2015/6/2015:46:50
    日本の切手の金額の種類はどれくらいあるのですか?
    はじめての質問はじめての質問利用者からの投稿(参考ページ
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    http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/new/
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    利き手と脳
    なぜなる?どう違う?左利き・右利き





    脳のはたらきは利き手で違う!?



    利き手と脳は、よく知られているように右手は左脳と、左手は右脳と繋がっている。目や耳もしかり。クロスするカタチで左右の脳と密接に結びついているのだ。だが、目や耳よりも、利き手による脳の違いのほうが圧倒的に大きいことが解明されてきている。では、利き手によって、脳のはたらきにどんな違いがあるのだろう!?まずは、右利き・左利きが決まる時期から見ていってみよう。 右手と左脳、左手と右脳





    利き手は、3~4歳で決まる



    右利き、左利き、あなたはどちらだろう!? 人間は、世界の国々を見渡してもほとんどが右利きで、左利きの人は、全体の約10%くらいしかいないと言われている。しかも、右利きが圧倒的に多いのは、生き物の中でも人類だけに見られる顕著な特徴だというのをご存知だろうか。

    人類は二足歩行をはじめ、道具を使い、言葉を操るようになる進化の過程で、脳が大きく発達し、それとともに右利きが増えたと言われている。この進化の過程は、生まれて間もない子供たちの発達の過程でもうかがい知ることができる。

    0~2歳くらいの子供の様子を見てみると、今日は右手で積み木遊びをしていたかと思うと、明日は左手で絵を描いているといった具合で、左右どちらの手もランダムに使っているのだ。その子供たちの利き手がしっかり決まってくるのは、だいたい3~4歳くらい。では、なぜ、このとき、左利きになる子供がいるのだろうか!?






    左利きになる原因は、いまだ解明途上



    左利きになる理由には諸説ある。ひとつは遺伝説。しかし、これは一卵性双生児でも一人は右利き、もう一人が左利きになる子供がいることで信憑性が少ないとされている。

    もうひとつは、利き手が決まる3~4歳くらいまでに左手を使うことが多かった子は左利きになるという環境説。さらには、胎内での成長過程もしくは出産時に何らかの原因で左脳を圧迫する事態が発生し、その左脳のはたらきを補うために右脳が活発になって左利きになるという説もある。

    だが、現在のところ、どの説が有力とも言い切れないようだ。
    ただ、左利きの場合、脳の作りが右利きと違う人がいることは解明されている。なぜなら、左利きの人の脳は、次の3種類にわけることができるからだ。


    《左利きの人の脳の種類》

    TYPE 1 右利きの人の脳とあまり変わらない
    TYPE 2 左右の脳が反対になっている
    TYPE 3 言語能力(右利きでは左脳)や空間能力(右利きでは右脳)が左右両方にある



    右利きと変わらない場合や左右の脳が反対になっている場合は、単に利き手が違うだけともいえる。だが、言語能力や空間能力が左右両方の脳にあるケースでは、右利きの人よりも、左右両方の脳を使う頻度が高いと言えるだろう。これは統計的にも実証されており、話をするときに主に左脳だけを使うのは、右利きの大人の場合90~95%なのに対し、左利きでは約60%と少ないのだ。つまり、左利きの人の残り40%の多くが、左右の脳を駆使して話をしていると考えられる。






    左右の脳をバランスよく鍛えて活かそう



    せっかく左脳と右脳があるのだ。どちらか一方ばかりを使っているのは少しもったいない。右利きの人も、左手をもっと使うことによって、左右の脳をより良く活かそう!

    ただ、右脳と左脳はさまざまな役割を分担してはいるが、最終的に決定を下し、何かを実行に移すには、両方の脳が総合的にはたらいてこそ実現するのだ。どちらの脳が優れている、といった問題ではないことに留意しておきたい。要はバランス。どちらかの脳を活かす、というのではなく、両方の脳を活かしきることを考えよう。

    左右の脳の働きの違い

    ちなみに、利き手や左右の脳の違いを病気という切り口で見ると、「左脳より右脳のほうが傷つきやすい」という特徴があげられる。例えば左脳で卒中が起こって右半身不随になるのは、左半身不随になる人の約4倍。脳が受ける損傷も、左脳のほうが約2.5倍も多いのだ。

    一方、左利きの人の病気にも特徴がある。左利きの場合は睡眠障害や斜視になりやすく、聴覚障害になる確率は、右利きの約2.5倍。さらに、あらゆることを左手で行うような左利きの場合は、アレルギーや花粉症などの免疫系の病気になる確率が右利きの約2.5倍にもなるともいわれている。利き手によってかかりやすい病気にも違いがあるわけだ。この点は、十分に気をつけたい。








    ワンポイント子育て講座 左利きは矯正したほうがいい?
    左利きの子供を持つ両親にとって気になるのが、左利きは矯正したほうが良いのか、という問題だろう。確かに左利きは、日常生活のさまざまな面で不便なことが多い。例えば左手では紙に文字を書きにくいし、ハサミも使いにくい。左利き用のさまざまな道具が出回っているとはいえ、右利きでは気づかないような場面で苦労しているものだ。

    楽しく生きて笑って死にたい

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    国民みんなの願い。

    自分も苦しまず。他人にも迷惑かけず天国へ。

    長患いせずに下の世話にもならず、ぼっくりと安楽死

    葬儀は晴天にめぐまれる。

    楽しく生きて笑って死にたい。

    大坂の陣四百年。徳川家と豊臣家。大仏殿と二条城

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    2016年2月11日、京都府ウォーキング協会
    大坂の陣4百年豊臣家と徳川家、大仏殿と二条城

    梅小路公園、10時スタート自由歩行

    西本願寺唐門
     西本願寺の国宝唐門は寺域の南側、北小路通に面した位置にあります。以前は御影堂の前にあったものを元和4年(1618年)に北小路通の現在地に移建しました。
     絢爛豪華の語を再現した門と言えます。まず目に飛び込むのは内側を向いた2頭の麒麟(きりん)、といっても首の長い現在の「きりん」ではありません。獅子や龍、孔雀など桃山時代の人達が豪華を連想したであろう動物達の彫刻が原色で装飾されています


    猪熊通
    猪熊通は堀川通から数えて西へ2本目の筋で、西陣の元誓願寺通から十条通に至る6.3kmの路。途中、二条城と西本願寺の前後で中断し、十条通から南には、久世橋通の一筋南の地域までの長い区間に、通の延長が断片的に残ります。

    平安京の猪熊小路(猪隈小路)にあたり、その後は堀川西通とも呼ばれていた時期もありました。通りの名は、仁治年間にこの通の近くに居住した藤原基実を猪熊殿と称した事に由来するとの説もありますが、正確なところは不明。

    平安京では商業の中心地として栄えていましたが、次第にその地位を町小路(後の新町通)に奪われ、朱雀大路の衰退と共に洛中の西端へと追いやられていきます。


    七条通り
    京都駅を出て、塩小路通を渡り最初に突き当たる大通りが七条通。その名のとおり、平安京の七条大路にあたります。

    東は真言宗智山派総本山・智積院(ちしゃくいん)の門前にあたる東大路通との交差点、東山七条が起点。4車線の幹線道路ですが、西は葛野大路通を越えたあたりで旧道となり、南に曲がって桂川に架かる桂大橋の東詰で八条通と合流。山陰街道(山陰道)の旧筋につながる約6kmの路です。

    七条大路は平安京から近世に至まで都の南端で、現在の七条千本付近が洛中・洛外の境界となり、そこから七条通を西に延ばす形で山陰街道(山陰道)が続いていました。

    通りには東西2つの「市」があった事から、古くから商業の中心として栄えており、外国使節を迎える施設もこの通り沿いにありました。土蔵や商家が建ち並び、また多くの手工業者もこの通りに集住していました。それが現在にも続く仏具店につながります。

    興正寺

    地下道くぐる

    旧花屋町通
    京都の東本願寺、西本願寺の北側を抜けて京都市街を東西に走る花屋町通もまた、時代によって数多い変遷を経て、いくつもの通名を持つと共に、その道筋にさまざまな表情の町並みを持つバラエティーに富んだ通りの一つでもあります。この通の名の由来には、両本願寺に手向ける生花商の店が多かったこと言われていますが、正確な所は分かりません。

    この花屋町通は五条通と七条通のほぼ中間に位置し、東は富小路から西は葛野大路通・阪急西京極駅に至る約4.4kmの路ですが、途中、京都中央卸売市場で中断します。
    平安京の左女牛通(さめうしとおり)にあたり、この通りは平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)の北側に面する小路でした。鎌倉時代以降には、この小路付近に琵琶法師が集住したといわれ、近世には堀川通から東は籠屋町通、万年寺通、花屋町通の各通りが少しずつズレて配列され、かつその道筋は様々な名で呼ばれ定まってはいませんでした。

    新花屋町通

    東本願寺
    真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。

    第3代覚如かくにょ上人(1270~1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。

    東本願寺阿弥陀堂


    三十三間堂南門
    - 太閤秀吉と三十三間堂
     当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたのです。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重文)が残ります。
      お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続きました。大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたといいます。
      秀吉は、死後「豊国大明神・とよくにだいみょうじん」という神格として祀られ、お堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営されました。


    養源院

    豊臣秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した寺。一度は焼失したが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江(おごう・お江与《おえよ》)の方(後の崇源院)の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興された。以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。
    本堂の廊下の天井は有名な「血天井」。俵屋宗達が描いた襖絵「松図」や、白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵(重要文化財)と共に、慶長5年(1600年)8月1日に伏見城で自刃した徳川家の家臣を慰めている。

    豊国神社鳥居くぐる

    豊国神社本殿
    元和元年(慶長二十年・1615年)7月9日、大坂の陣に勝利した徳川家康が、板倉勝重金地院崇伝南光坊天海などに、秀吉を祀る豊国神社の破却を命じました。


    方広寺


    大仏殿跡
    方広寺は「国家安康 君臣豊楽」(現在も方広寺に大きな梵鐘があります、国重要文化財)の鐘銘で有名ですが、奈良の大仏が松永久秀に焼き打ちされた後に豊臣秀吉が東大寺のものより大きな大仏を安置するために造営されました。当時の方広寺はかなり広かったようですね。現在大仏殿跡(国史跡)は発掘調査を終えて大仏殿跡緑地として公園となっています。


    産寧坂

    二年坂

    一年坂

    高台寺公園

    円山公園

    知恩院
     知恩院と徳川家の関わりについてはこんな話もあります。徳川家は朝廷を監視するために二条城をおいていたのですが、万が一、二条城が落ちた時にこの知恩院を第二の城として考えていたという説があるのです。その証拠としては先ほど出てきた巨大な三門は御所の監視や二条城との連絡に最適であるとか、大方丈、小方丈の建物のつくりと、襖絵が二条城のものとよく似ているという点があげられています。また知恩院には本来的の侵入を知られるための鴬張りの廊下もあります。

    岡崎公園

    平安神宮

    冷泉通り

    川端通


    丸太町通
    丸太町通(まるたまちどおり[1])は京都市の主要な東西の通りの一つで、平安京の春日小路に当たり[2]、現在の京都御所京都御苑)の南端を走る。この通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、この名がついたと言われている。江戸時代地図を見ると「丸田町通」と表記されていることもある。
    東は鹿ヶ谷通から西は右京区嵯峨釈迦堂大門町まで延びている。全区間京都市道187号鹿ヶ谷嵐山線として、4車線の供用および歩道が整備されている。今出川通と同様に4車線ギリギリの幅員しかなく、右折レーンのない主要交差点も多いことからのラッシュ時には渋滞が頻繁に起こる



    堀川通
    北は鴨川堤の加茂街道から南は東海道本線交差部北で一筋東を走っていた油小路通に合流する。幹線道路としては一続きながら、南は油小路通と別の名前をつける。 堀川紫明以北は4車線の幹線道路、堀川紫明から堀川今出川までは中央分離帯の幅も広いゆったりとした6車線の幹線道路。 堀川今出川から堀川御池は後述の通り堀川が明り区間で、東西堀川通が並び残っている


    二条城
    1603年二条城築城。1611年後水尾天皇の行幸を得た
    早急に豊臣家をつぶさなけでばならないと言われた


    押小路通
    押小路通は御池通から北へ一本目、二条通と挟まれた路で、平安京の押小路にあたります。
    平安京時代には大内裏に最も近い通りであったため、多くの邸宅がこの通りに面して立ち並んでいました。鎌倉期以降も足利氏など時の有力武家がこの通りに屋敷を構えていた為、京の中心とも言える高いブランド力があるエリアだったのでしょう。しかしこの鎌倉期以降から1本北の二条大路を境界に上京・下京と区分けするようになり、京の中心地ではなくなってしまいました。
                      応仁の乱で荒廃した後、豊臣秀吉の洛中改造で再整備。西は烏丸通まででしたが、宝永5年の大火後に油小路通まで延伸されます。明治以降は堀川通、さらに西の千本通まで開通。狭軌の京電(後の市電)が走っていました。
    現在は木屋町通から堀川通で終わり、それより西は拡幅された御池通の幹線道路に取り込まれてしまいました。ただし、御池通がJR二条城駅東口で中断され、その駅の反対側の西口から始まる御池通へのバイパス路を押小路通と総称する場合もあります。

    JR二条解散。参加者635名、14K

    神の家系

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    神の家系
    ●天地開闢(てんちかいびゃく)

    世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神が生まれた
    【 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)】
    【 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)】
    【 神産巣日神(かみむすひのかみ)】

    次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。

    【 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)】
    【 天之常立神(あめのとこたちのかみ)】

    この五柱の神は性別はなく独身のまま子どもを生まず身を隠してしまい、これ以降表だって神話には登場しないが、
    根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため別天津神(ことあまつかみ)と呼ぶ。
    神武天皇76年、127歳崩御

    系譜[編集]

    天皇系図 神代
    父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。イザナギ天照大神皇祖神)―アメノオシホミミニニギホオリ―彦波瀲武鸕鶿草葺不合命―神武天皇、と連なるとされる。
    古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命稲飯命御毛沼命がいる。


     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    天火明命
     
    尾張氏族]
     
     
     
     
     
    天照大神
     
    天忍穂耳尊
     
     
    瓊瓊杵尊
     
    火闌降命
     
    阿多氏族]
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    天穂日命
     
    出雲氏族]
     
     
    彦火火出見尊
     
    彦波瀲武盧茲草葺不合尊
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    天津彦根命
     
    額田部氏族]
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    彦五瀬命
     
     
     
    稲飯命
     
     
     
    三毛入野命
     
     
    手研耳命
     
     
     
     
     
    (1)神武天皇
     
     
    神八井耳命
     
    多氏族〕
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    (2)綏靖天皇
     
    (3)安寧天皇
     
    (4)懿徳天皇
     
    (5)孝昭天皇
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    天足彦国押人命
     
    和珥氏族〕
     
     
    (8)孝元天皇
     
    大彦命
     
    阿倍氏族〕
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    (6)孝安天皇
     
    (7)孝霊天皇
     
     
    倭迹迹日百襲姫命
     
     
    (9)開化天皇
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    吉備津彦命
     
     
    彦太忍信命
     
    屋主忍男武雄心命
     
    武内宿禰
    葛城氏族・蘇我氏族〕
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    稚武彦命
     
    吉備氏族〕
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    (10)崇神天皇
     
    豊城入彦命
     
    毛野氏族〕
     
     
    日本武尊
     
    (14)仲哀天皇
     
    (15)応神天皇
     
     
     
     
     
     
     
     

    日本の天皇陵

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    明治天皇陵
    注:陵墓名・形式・所在地は宮内庁-天皇陵による。宮内庁管理の天皇陵一覧
    備考 古墳名がある場合は表記。陵墓往訪済みは表示、リンク先参照。

    神代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    神武ジンム畝傍山東北陵円丘奈良県橿原市大久保町九州の日向国から東進して橿原の宮で初代天皇となる。
    即位は紀元前660年2月11日(建国記念日)
    陵は山本ミサンザイ古墳(神武田古墳)
    橿原神宮に祀られている

    【神武天皇陵】
    綏靖スイセイ桃花島田丘上陵円丘奈良県橿原市四条町塚山古墳
    安寧アンネイ畝傍西南御陰井上陵山形奈良県橿原市吉田町 
    懿徳イトク畝傍山南繊沙渓上陵山形奈良県橿原市西池尻町 
    孝昭コウショウ掖上博多山上陵山形奈良県御所市三室 
    孝安コウアン玉手丘上陵円丘奈良県御所市玉手 
    孝霊コウレイ片丘馬坂陵山形奈良県北葛城郡王寺町 
    孝元コウゲン剣池嶋上陵山形奈良県橿原市石川町中山塚1~3号墳
    開化カイカ春日率川坂本陵前方後円奈良市油阪町念仏寺山古墳

    開化天皇陵 ここ
    綏靖天皇から開化天皇までをを欠史八代として実在が怪しまれている。
    崇神スジン山辺道勾岡上陵前方後円奈良県天理市柳本町行燈山古墳
    垂仁スイニン菅原伏見東陵前方後円奈良市尼辻町宝来山古墳
    景行ケイコウ山辺道上陵前方後円奈良県天理市渋谷町渋谷向山古墳
    成務セイム狭城盾列池後陵前方後円奈良市山陵町佐紀石塚山古墳
    仲哀チュウアイ恵我長野西陵前方後円大阪府藤井寺市藤井寺岡ミサンザイ古墳
    応神オウジン恵我藻伏崗陵前方後円大阪府羽曳野市誉田誉田御廟山古墳
    仁徳ニントク百舌鳥耳原中陵前方後円堺市堺区大仙町第16代天皇。
    河内王朝の礎を築く。
    治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。大仙陵古墳
    都は難波高津宮

    【仁徳天皇陵】
    履中リチュウ百舌鳥耳原南陵前方後円堺市西区石津ヶ丘
    【履中天皇陵】上石津ミサンザイ古墳
    反正ハンゼイ百舌鳥耳原北陵前方後円堺市堺区北三国ヶ丘町堺に住んでた頃、自宅の近くだった
    田出井山古墳

    【反正天皇陵】
    允恭インギョウ恵我長野北陵前方後円大阪府藤井寺市国府国府市ノ山古墳
    安康アンコウ菅原伏見西陵方丘奈良市宝来町 
    雄略ユウリャク丹比高鷲原陵円丘大阪府羽曳野市島泉島泉丸山古墳+平塚古墳
    清寧セイネイ河内坂門原陵前方後円大阪府羽曳野市西浦西浦白髪山古墳
    顕宗ケンゾウ傍丘磐杯丘南陵前方後円奈良県香芝市北今市 
    仁賢ニンケン埴生坂本陵前方後円大阪府藤井寺市青山野中ボケ山古墳
    武烈ブレツ傍丘磐杯丘北陵山形奈良県香芝市今泉 

    古代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    継体ケイタイ三島藍野陵前方後円大阪府茨木市大字太田太田茶臼山古墳
    安閑アンカン古市高屋丘陵前方後円大阪府羽曳野市古市5高屋築山古墳
    宣化センカ身狭桃花鳥坂上陵前方後円奈良県橿原市鳥屋町鳥屋ミサンザイ古墳
    欽明キンメイ檜隈坂合陵前方後円奈良県高市郡明日香村大字平田梅山古墳
    敏達ビタツ河内磯長中尾陵前方後円大阪府南河内郡太子町太子西山古墳
    用明ヨウメイ河内磯長原陵方丘大阪府南河内郡太子町春日向山古墳
    崇峻スシュン倉梯岡陵円丘奈良県桜井市大字倉梯
    推古スイコ磯長山田陵方丘大阪府南河内郡太子町第33代天皇。日本初の女帝
    甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として摂行させた。
    聖徳太子ゆかりの寺は法隆寺。
    推古山田高塚古墳
    舒明ジョメイ押坂内陵八角奈良県桜井市大字忍坂忍坂段ノ塚古墳
    飛鳥京
    皇極
    (→斉明)
    コウギョク---女帝
    舒明天皇の皇后。
    大化の改新により同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った
    孝徳コウトク大阪磯長陵円丘大阪府南河内郡太子町山田上ノ山古墳
    前期.難波宮
    斉明サイメイ越智崗上陵円丘奈良県高市郡高取町皇極天皇が重祚(女帝)。
    車木ケンノウ古墳
    飛鳥京
    天智テンジ山科陵八角京都市山科御陵上御廟野町第38代天皇。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られる
    大化の改新を主導し、中央集権国家を目指す。
    小倉百人一首の、冒頭の句が有名。
    「秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」

    山科御廟野古墳、大津京
    弘文コウブン長等山前陵円丘滋賀県大津市御陵町園城寺亀丘古墳
    天武テンム檜隈大内陵八角奈良県高市郡明日香村第40代天皇。
    官僚制度・身分制度を確立し中央集権国家の基盤を作る。
    高松塚古墳は天武天皇の時代の直後。薬師寺は皇后(持統)の病気平癒を祈念して建立を発願。
    野口王墓古墳(持統と合葬)
    飛鳥京
    持統ジトウ女帝
    野口王墓古墳(天武と合葬)
    藤原京
    文武モンム檜隈安古岡上陵山形奈良県高市郡明日香村大字栗原栗原塚穴古墳
    元明ゲンメイ奈保山東陵山形奈良市奈良阪町女帝
    平城京
    元正ゲンショウ女帝
    聖武ショウム佐保山南陵山形奈良市法蓮町第45代天皇。国分寺。国分尼寺を建立し仏の力による鎮護国家を祈念。
    光明皇后は有名(孝謙天皇は娘)
    恭仁京後期.難波宮 、紫香楽宮
    平城京
    東大寺大仏の開眼法要を行う。
    孝謙
    (→称徳)
    コウケン--女帝
    淳仁ジュンニン淡路陵山形兵庫県三原郡南淡町 
    称徳ショウトク高野陵前方後円奈良市山陵町孝謙天皇の重祚(女帝)
    佐紀高塚山古墳
    光仁コウニン田原東陵円丘奈良市日笠町 

    平安時代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    桓武カンム柏原陵円丘京都市伏見区桃山町第50代天皇
    空海・最澄が密教を請来し坂上田村麻呂が東北へ遠征。

    【桓武天皇陵】
    平城ヘイゼイ楊梅陵円丘奈良市佐紀町市庭古墳
    嵯峨サガ嵯峨山上陵円丘京都市右京区北嵯峨朝原山町
    (備考:陵を隠すことが遺詔されたので、
    厳密な意味の陵は存在しない)
     
    淳和ジュンナ大原野西嶺上陵円丘京都市西京区大原野南春日町
    (備考:散骨されたので
    厳密な意味の陵は存在しない)
     
    仁明ニンミョウ深草陵方形京都市伏見区深草東伊達町 
    文徳モントク田邑陵円墳京都市右京区太秦三尾町太秦三尾古墳
    清和セイワ水尾山陵円丘京都市右京区嵯峨水尾清和 
    陽成ヨウゼイ神楽岡東陵八角丘京都市左京区浄土寺真如町 
    光孝コウコウ後田邑陵円丘京都市右京区宇多野馬場町 
    宇多ウダ大内山陵方丘京都市右京区鳴滝宇多野谷 
    醍醐ダイゴ後山科陵円形京都市伏見区醍醐古道町 
    朱雀スザク醍醐陵円丘京都市伏見区醍醐御陵東裏町 
    村上ムラカミ村上陵円丘京都市右京区鳴滝宇多野谷 
    冷泉レイゼイ桜本陵円丘京都市左京区鹿ヶ谷法然院町 
    円融エンユウ後村上陵円丘京都市右京区宇多野福王子町 
    花山カザン紙屋川上陵方丘京都市北区衣笠北高橋町出家して法皇になっての観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されている。
    菩提寺
    一条イチジョウ円融寺北陵円丘京都市右京区竜安寺第66代天皇
    花山天皇の出家により、7歳で天皇になった。
    藤原氏が栄華をきわめる中、平安女流文学が開花する。紫式部や清少納言の時代である。
    三条サンジョウ北山陵円丘京都市北区衣笠西尊上院町 
    後一条ゴイチジョウ菩提樹院陵円丘京都市左京区吉田神楽岡町 
    後朱雀ゴスザク円乗寺陵円丘京都市右京区竜安寺朱山 
    後冷泉ゴレイゼイ円教寺陵円丘京都市右京区竜安寺朱山 
    後三条ゴサンジョウ円宗寺陵円丘京都市右京区竜安寺朱山第71代天皇
    藤原氏を外戚としない天皇が171年ぶりに登場。
    藤原頼道は平等院を開基。
    35歳で即位、在位わずか4年ながら歴史の転換であった。
    白河シラカワ成菩堤院陵方丘京都市伏見区竹田浄菩堤院町城南宮は白河上皇が院政を行うために造営した城南離宮の鎮守社

    【白河天皇陵】
    堀河ホリカワ後円教寺陵円丘京都市右京区竜安寺朱山 
    鳥羽トバ安楽寿院陵方形堂京都市伏見区竹田内畑町 
    崇徳ストク白峯陵方丘香川県坂出市青海町保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で歿した。
    京都に白峯神宮がある。
    近衛コノエ安楽寿院南陵多宝塔京都市伏見区竹田内畑町 
    後白河ゴシラカワ法住寺陵方形堂京都市東山区三十三間堂廻り町第77代天皇
    世界はすでに末法に入っていると言われた平安時代後期。強烈な個性を貫いた人。後の5代(二条~後鳥羽)に院政を敷く。
    二条ニジョウ香隆寺陵円丘京都市北区平野八丁柳町 
    六条ロクジョウ清閑寺陵円丘京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 
    高倉タカクラ後清閑寺陵方丘京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 
    安徳アントク阿弥陀寺陵円丘山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮内福原京に遷都 、平安京
    壇ノ浦の戦いで、わずか8歳で波間に沈む。

    鎌倉時代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    後鳥羽ゴトバ大原陵石造十三重塔京都市左京区大原勝林院町第82代天皇
    大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に祭神として祀られている
    手形を押した宸翰を大山崎町歴史資料館でみた(レプリカ)
    土御門ツチミカド金原陵八角丘京都府長岡京市金ヶ原土佐、阿波に流されたことから、土佐院、阿波院の別称がある。
    順徳ジュントク大原陵円丘京都府左京区大原勝林院町 
    仲恭チュウキョウ九条陵円丘京都市伏見区深草本寺山町 
    後堀河ゴホリカワ観音寺陵円丘京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 
    四条シジョウ月輪陵石造九重塔京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
    【月輪陵】
    後嵯峨ゴサガ嵯峨南陵方形堂京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺内 
    後深草ゴフカクサ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町第89代天皇
    弟の亀山天皇との確執が、のちの南北朝時代を招く。
    亀山カメヤマ亀山陵方形堂京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺内 
    後宇多ゴウダ蓮華峯寺陵方形堂・石造五輪塔京都市右京区北嵯峨朝原山町 
    伏見フシミ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    後伏見ゴフシミ 
    後二条ゴニジョウ北白河陵円丘京都市左京区白河追分町 
    花園ハナゾノ十楽院上陵円丘京都市東山区粟田口三条坊町妙心寺の開基

    南北朝時代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    後醍醐ゴダイゴ塔尾陵円丘奈良県吉野郡吉野町吉野山 如意輪寺内第96代天皇
    三種の神器とともに吉野に入り、もう一つの朝廷を建てる。 
    後村上ゴムラカミ檜尾陵円丘大阪府河内長野市寺元 観心寺内第97代天皇
    南北朝の戦乱に翻弄され住吉行宮で生涯を閉じる。
    賀名生皇居跡
    政庁は天野山金剛寺にあった。

    【後村上天皇陵】
    長慶チヨウケイ嵯峨東陵円丘京都市右京区嵯峨天龍寺角倉 
    後亀山ゴカメヤマ嵯峨小倉陵石造五輪塔京都市右京区嵯峨鳥居本小坂 
    光厳(北1) 山国陵円丘京都市右京区京北井戸町丸山天野山金剛寺 に、北朝の光厳、光明、崇光の御座所がある。
    光明(北2) 大光明寺陵円丘京都市伏見区桃山町 
    崇光(北3)  
    後光厳(北4) 深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    後円融(北5)  
    後小松ゴコマツ第100代天皇
    南北朝が合一するが幕府方の戦いが続く。北朝最後の(6代)の天皇
    *(北)は北朝の天皇を現す
     北朝の6代6人の天皇のうち後小松天皇を除く5代5人は、125代(現在の天皇)の歴代天皇に含まれない。
     天皇としては、存在し南北の朝廷を認めている。

    室町・戦国時代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    称光ショウコウ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    後花園ゴハナゾノ後山国陵石造宝篋印塔京都市右京区京北井戸町丸山 
    後土御門ゴツチミカド深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    後柏原ゴカシバラ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    後奈良ゴナラ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    正親町オオギマチ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町第106代天皇
    信長・秀吉の治世下で桃山文化が開花する。 

    江戸時代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    後陽成ゴヨウゼイ深草北陵方形堂京都市伏見区深草坊町 
    後水尾ゴミズオ月輪陵石造九重塔京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内


    【月輪陵】
    第108代天皇
    徳川幕府創業期の天皇。在位19年、院政51年と言う長期であった。(明正~霊元)
    明正メイショウ女帝
    後光明ゴコウミョウ 
    後西ゴサイ 
    霊元レイゲン 
    東山ヒガシヤマ 
    中御門ナカミカド 
    桜町サクラマチ 
    桃園モモゾノ 
    後桜町ゴサクラマチ女帝
    後桃園ゴモモゾノ 
    光格コウカク後月輪陵石造九重塔京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 
    仁孝ニンコウ第八皇女が和宮である。孝明天皇の異母妹。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室。
    和宮関連 宝鏡寺
    孝明コウメイ後月輪東山陵円丘京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内第121代天皇
    尊皇攘夷から倒幕運動、大政奉還への変革期の天皇

    近現代

    天皇名 カナ 陵墓名 形式 所在地 備考
    明治メイジ伏見桃山陵上円下方京都市伏見区桃山町第122代天皇
    王政復古の大号令を発し一世一元制を定める
    昭憲皇太后陵と共に明治神宮に祀られている
    【明治天皇陵】
    大正タイショウ多摩陵上円下方東京都八王子市長房町 
    昭和ショウワ武蔵野陵上円下方東京都八王子市長房町第124代天皇
    敗戦後に、人間宣言を発して国民統合の象徴となる

    大阪の太閤さん

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    蛸石桜門5.5m11.7m59.43㎡約130t備前・犬島岡山藩主・池田忠雄
    2肥後石京橋門5.5m14.0m54.17㎡約120t讃岐・小豆島池田忠雄
    3振袖石桜門4.2m13.5m53.85㎡約120t備前・犬島池田忠雄
    4見付石大手門5.1m11.0m47.98㎡約108t讃岐・小豆島熊本藩主・加藤忠広
    5二番石大手門5.3m8.0m37.90㎡約85t讃岐・小豆島加藤忠広
    6碁盤石桜門5.7m6.5m36.50㎡約82t備前・沖ノ島池田忠雄
    7二番石京橋門3.8m11.5m36.00㎡約81t讃岐・小豆島池田忠雄
    8三番石大手門4.9m7.9m35.82㎡約80t讃岐・小豆島加藤忠広
    9四番石桜門6.0m5.0m26.90㎡約60t池田忠雄
    10竜石桜門3.4m6.9m23.0㎡約52t備前・沖ノ島池田忠雄
       クリックで拡大します
    sakura_32.jpg蛸石の名前の由来の一つとされるしみだした鉄分のシミ
    sakura_01.jpg枡形上から見た蛸石。予想以上の薄さにまずは驚く。
    sakura_35.jpg同じく蛸石。枡形上部へは裏側から簡単に登ることができる。
    Hishi_31.jpg別名・兵庫県(?) 桜門枡形の烏帽子石。
    otemon020.jpg大手門枡形を横から。石の表面がかなり湾曲しているのがわかる。
    otemon014.jpg大手二番石と大手目付石。含有物の模様が一致することから同一の石がこの場で割られたものと思われる。
    otemon007.jpg大手門枡形。左から大手二番石、大手目付石、大手三番石の順に並ぶ。
    otemon006.jpg城内側から見た大手門枡形。この辺りは驚くくらいに巨石だらけだ。
    tama_14.jpg巨大な鏡石のみが江戸期の名残となっている玉造口。
    gokuraku_03.jpg地面まで全て花崗岩の切石で敷かれた極楽橋枡形。
     (ほとんど池田と加藤やん!

     

    膳所城跡

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    1件 の用語解説(膳所城の意味・用語解説を検索)

    日本の城がわかる事典の解説

    ぜぜじょう【膳所城】

    滋賀県大津市にあった平城(ひらじろ)(水城)。江戸時代に膳所藩の藩庁が置かれた城である。琵琶湖に注ぐ相模川の河口に築かれ、琵琶湖にせり出すように本丸・二の丸・三の丸などの郭がつくられていた。移築されて現存する大手門、北大手門が国の重要文化財に指定されており、松江城(島根県松江市)、高島城(長野県諏訪市)とともに日本三大湖城の一つに数えられている。関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6)、徳川家康が大津城(大津市)を廃して、交通の要衝の瀬田を押さえる新城の建設を決め、築城した城である。城の完成後、大津城の城主であった戸田一西が3万石で入城した。その後、戸田氏が移封されたのちは、複数の譜代大名が交替で城主を務めたが、1651年(慶安4)に本多俊次が7万石で入城後、城主は本多氏の世襲となり、明治維新を迎えた。俊次の入城から11年後の1662年(寛文2)に地震により城の建物が倒壊し、俊次は大改修を行っている。1870年(明治3)、明治政府から廃城令(太政官布告)が発布されると、旧藩士らにより天守をはじめとする建物の解体と移築が行われた。現在、本丸跡は膳所城跡公園として整備されている。園内には石垣の一部が現存する。また城門が模擬再建されている。かつての城門が市内の膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に移築され現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されているほか、高麗門は大阪府泉大津市松ノ浜の細見記念財団に移築され現存する。また、市内の芭蕉会館に本丸隅櫓(すみやぐら)が移築され現存しているが、大幅な改造が行われたために、往時の原形をとどめていない。京阪電鉄・石山坂本線膳所本町駅から徒歩約7分。またはJR琵琶湖線大津駅からバス約15分、膳所公園下車。

    膳所城の移築門など
     膳所城は関ヶ原の合戦後に築城され、明治3年(1870)に廃城となるまで存続し、その遺構は数多く残っています。

    HOME大津・志賀地区膳所城
    膳所城の遺構(写真をクリックすると拡大します)所 在 地
    本丸大手門
        
    膳所神社表門 重要文化財
     大津市膳所町
      所在地詳細 左メニュー付き
    城門
        
    膳所神社南門
     大津市膳所町
      所在地詳細 左メニュー付き
    城門
        
    膳所神社北門
     大津市膳所町
      所在地詳細左メニュー付き
    城内の蔵十六体地蔵堂
     大津市膳所二丁目
    北大手門篠津神社表門(重要文化財)
     大津市中庄町
    南口総門番所(粟津番所)御殿浜町の民家
     大津市
    本丸の犬走門若宮八幡神社表門
     大津市杉浦町
    本丸黒門
        
    御霊神社神門
     大津市鳥居川町

      所在地詳細 左メニュー付き
    米倉門
         
    近津尾神社神門
     大津市国分町
       所在地詳細
     左メニュー付き
    藩校遵義堂表門
         
    和田神社表門
     大津市木下町

      所在地詳細 左メニュー付き
    藩家老村松八郎右衛門の屋敷門
         
    響忍寺表門(長屋門)
     大津市木下町
      所在地詳細
     左メニュー付き
    本丸二層隅櫓
        
    茶臼山公園芭蕉会館
     大津市秋葉台町
      所在地詳細
     左メニュー付き
      
    瓦ヶ浜御殿の一部 
        
    草津宿本陣 国指定史跡
     草津市草津町
      所在地詳細 左メニュー付き
    南大手門
        
    鞭崎神社表門(鞭崎八幡宮)  重要文化財
     草津市矢橋町
      所在地詳細 左メニュー付き
    二の丸水門
         
    新宮神社裏門
     草津市野路町
      所在地詳細 左メニュー付き
    南口総門(瀬田口総門)細見家の門(一時、瀬田神領町の建部神社に移築されていたが現在では泉大津に移築されている)
     泉大津市

    HOME大津・志賀地区膳所城
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