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Channel: ウオーキング。歴史。中路正樹
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小野小町生誕地、終焉地多数

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全国小野小町マップ
全国小野小町史跡一覧表

県  名市町村名史跡名・由来等備考
北海道---
青森県三戸町玉岑寺に安置されている老衰像は小町の老いた姿とされています。-
秋田県湯沢市雄勝町小町堂、桐の木田井戸、小町姿見の池、岩屋堂、姥子石等生誕、終焉の地
秋田県横手市専光寺に小町自作とされる「護法善神名姫尊」を安置。 -
秋田県秋田市誓願寺に安置されている脱衣鬼像は小町が101歳の時の姿をしていると伝えられています。 -
秋田県三種町小町が眼病の回復を祈願する為に房住山に登拝。
小町が皮膚病の回復を祈願する為に房住山に登拝。
小町清水-上岩川の岸辺にある冷泉を小町が汲んだ。
伝説
岩手県---
宮城県大崎市古川小野小町の墓終焉の地
宮城県東松島市小町石-晩年、諸国を旅していた際、休息に腰を下した石。
鳴瀬町小町原は小町の生誕地。
生誕の地
宮城県松島町桜渡戸-晩年、老体の身を養生した場所。 逸話
宮城県登米市小町塚-詳細不詳。 不詳
山形県米沢市小野川温泉(小町開湯)小町休み石滝の清水小町観音
薬師如来尊堂(小町開山)
逸話
山形県酒田市八幡神社-出羽国風土記によると元慶の大乱を鎮める為に小野良実が石清水八幡宮の分霊を勧請したとの記載がある。
山形県庄内町小野塚小野良実の墓
山形県山辺町愛宕神社(良実勧請) ・小町手植え大杉・諏訪神社(良実勧請)
日枝神社(良実勧請)・ 小野家縁(森谷家)山野辺城(良実居城)
良実塚(良実墳墓:前方後円墳?刀剣出土)・小町塚
生誕の地
山形県大江町巨海院が所有する伝、定朝作の虚空蔵菩薩(護法大士)は小町が篤く信仰したと伝えられています。逸話
山形県朝日町小町が大沼の浮島を見学していると紫雲に乗った天女が出現し羽衣を落としたと伝えられています。 伝説
山形県三川町小野小町の池-産湯を棄てた際、池となった。決して枯れる事も溢れる事も無いと云われています。小町生誕地
福島県小野町小野篁館珍敷御前(愛子)神社小町生誕地碑鬼石
愛子墓碑・篁神社(矢大神社)
生誕の地
福島県喜多方市小野小町塚小町化粧清水終焉の地
福島県白河市小野薬師堂快癒祈願
新潟県---
群馬県富岡市小野塩薬師化粧井戸得成寺終焉の地
栃木県岩舟町大慈寺(小町祈願所) ・小町墓碑終焉の地
茨城県土浦市小野小町の墓腰掛石、小町すずり石、清滝寺(小町縁)終焉の地
茨城県石岡市北向観音堂(延命地蔵)-小町が病気平癒の為に祈願。逸話
茨城県稲敷市逢善寺-常陸国司小野篁が御堂を再建。-
茨城県潮来市観音寺薬師堂-百か日の参籠をし眼病平癒を祈願し念願成就、御礼に桜を植樹した。逸話
埼玉県---
千葉県東金市小町塚生誕の地
東京都町田市萬松寺、小町井戸逸話
東京都多摩市小野小町歌碑、小町神社逸話
神奈川県厚木市泉町化粧塚、化粧灯ろう生誕の地
静岡県藤枝市姿見の橋-小町が晩年出羽国に帰国する途中に岡部宿に立ち寄り、橋から川に映る老いた姿を見て嘆き悲しんだ。逸話
山梨県甲府市甲斐善光寺に小野小町像-
長野県---
石川県---
福井県--
富山県---
岐阜県岐阜市岩井延算寺、岩井山東院逸話
岐阜県美濃加茂市小野寺逸話
岐阜県中津川市小町井戸(市史跡)-この井戸で化粧直しをしたそうです。逸話
愛知県甚目寺町小町塚、法性寺(小町の持念仏)逸話
滋賀県鳥居本小野小野小町塚生誕の地
滋賀県大津市小野神社(小町塚)小野家発祥の地
滋賀県大津市長安寺逸話
京都府京丹後市小野小町の墓妙性寺(小町木像・位牌・縁起)、薬師堂(小町の持念仏)終焉の地
京都府山科区随心院小野小町化粧井戸小町在住の地
京都府下京区小野小町の化粧水小野小町の別荘
京都府上京区一条通小野小町双紙洗水逸話
京都府左京区補陀落寺、小町供養塔終焉の地
京都府綴喜郡井手町小野小町塚終焉の地
大阪府---
奈良県奈良市今市町帯解寺小町の宮跡地
三重県---
和歌山県和歌山市小野小町の墓終焉の地
兵庫県---
岡山県倉敷市帯江姿見の井戸逸話
岡山県総社市黒田小町の墓、供養塔、小町井戸終焉の地
広島県---
鳥取県岸本町五輪塔(伝:小町の墓)・堂屋敷跡・化粧井戸(泉水)終焉の地
鳥取県会見町雲光寺-金龍山小町位牌(戒名:誠清院殿霊顕妙照大禅定尼・没年:承和5年(838)4月29日)-
島根県伯耆町小野小町五輪塔終焉の地
山口県下関市豊浦町小野小町の墓終焉の地
山口県光市小野小町の墓終焉の地
香川県---
徳島県---
愛媛県松山市梅元寺逸話
高知県南国市小野神社-
福岡県---
大分県---
佐賀県---
長崎県---
熊本県植木町小町堂、七国神社、小野の泉水等生誕の地
宮崎県小林市-生誕の地
鹿児島県---
沖縄県---

奈良県何の日

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これからどしどし追加して行きます、

609年8月8日=飛鳥大仏完成

621年12月21日=聖徳太子の母穴穂部間人皇女死去

622年2月22日=聖徳太子斑鳩宮で死去

671年10月19日=大海皇子吉野へ出発9-

698年10月14日=奈良に薬師寺完成

730年=興福寺五重塔建立

734年1月11日=興福寺西金堂建立

1089年2月5日=興福寺金堂焼失

1180年5月26日=頼政奈良に向かった?

1480年11月22日=興福寺十三重塔焼失

1495年11月22日=大和長谷寺炎上

1584年8月11日=大和順慶が大和郡山城で病死

1868年7月8日=奈良県設立

1950年5月18日=奈良競輪開場

1958年8月6日=生駒自動車道開通

1958年9月25日=藤の木古墳発掘

1964年9月20日=池原発電所送電開始(北山村)

1967年3月26日=葛城ロープウエイ開通

2009年3月20日=近鉄奈良ー阪神三宮直通運転開始

あけましておめでとう。2016

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あけましておめでとうございます。
今年もウォーキング。歴史探訪。
よろしくお願いします。
2016年元旦



2016年ウォーク思い出

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1月2日=京都府ウォーキング協会
京都初詣ウォーク、14K。845名

1月3日=オレンジクラブ一歩会
京都五山ウォーク、15K

2016年ウォーク思い出

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1月2日=京都府ウォーキング協会
京都初詣ウォーク、14K。845名

1月3日=オレンジクラブ一歩会
京都五山ウォーク、15K

頭に触れるだけで痛し、眠れない

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10月23に頃より
頭が触れるだけでズキンズキン痛みます。横になって寝ころぶと頭に触れるので痛い、洗髪も出来ないし、眠れない
頭がふわふわして重苦しい
何かいい知恵ありませんか。

退院しました。お見舞い訪問ありがとう。
10月5日無事に退院することが出来ました、これより1か月、2か月療養してウォークに参加できるように専念します。


交通事故で大変ご迷惑おかけしました。
これからもよろしく
腰以外は元気です。

9月14日ウォーキングに参加の為に
近鉄京都線桃山御陵駅を下車して
集合場所の桃山御陵入口にむかっていました。
JR奈良線桃山駅西側の午前9時頃、踏切を渡り交差点の青信号を確認をした、左右の車両はなかった、右折してくる車両は2台も確認して渡っていた時右折してきた、車両に
両手を衝いたまま後ろ向きに倒された。
腰が思い切り強打して立つことが出来ず
救急車で宇治徳洲会病院に搬送された。
uji健歩会皆さんに同乗していただき
大変ご迷惑おかけしました。
又皆さんといっしょうに1日でも早く歩けますように療養に専念します。

9月14日に加害者側訪問
保険会社より電話

9月18日に通院9時に病院へ
診察。レントゲンを受けた結果
骨盤右側の部分がヒビが入ってることが
わかりました。そしてコルセットの寸法
測る

9月19日に保険会社より電話、書類郵送されてくる、

9月21日に加害者訪問

9月24日=食事直後腹部左下が激痛。CT検査。レントゲン。造影剤CT検査その後入院

9月25日=午前4時小便出ずに激痛、に
管で11時までに2000cc出る
コルセット装着


9月26日=胃附近激痛に移る。

9月27日=浣腸、体重48、5K

9月28日=右側太ももに激痛移る

10月2日レントゲン、診察
まだ、骨盤にひびが、
加害者上司2名


10月3日=初めて病室内歩く

10月4日=看護師同行の上病院内歩く退院会議

10月5日=退院
体重47,2キロ、事故前は49,7K

10月12日=両足のしびれがきつく
夜あまり眠れないように

10月14日=妻が入院

10月15日=妻が白内障手術

10月17日=妻が退院

10月23日~26日あまり眠れない続く

10月27日=左側の頭部、首、肩がズキンズキンと痛くなり病院へ片頭痛
CT検査受けるが異常なし

10月30日=片頭痛の薬飲んでも効かないので脳神経科へ原因不明と言われ
カローナル飲むが効かない。
11月4日にMRI検査
整形外科レントゲンよくなりコルセット外しオッケ

11月に入っても頭が痛くて眠れない。

11月4日=MRI検査
妻は眼科へ

11月6日=脳神経科診察MRIは異常なし
痛みの原因不明。相変わらず痛みは続く

11月13日=宇治徳洲会病院へ紹介で
宇治武田病院へ(痛みは続く)
後頭神経痛と病名着けられる

11月20日=妻、心臓血管内科予約

11月27日=整形外科レントゲン、診察
予約

12月4日=朝から頭重く吐き気悠痛
病院へ37,8度風邪ひき









奈良初詣ウォーク

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2016年1月11日、大阪ウォーキング連合
奈良初詣。13K

JR奈良駅

興福寺三重塔、毎年7月7日特別公開

興福寺北円堂

興福寺南円堂

興福寺五重塔

氷室神社

東大寺大仏殿

東大寺二月堂

東大寺三月堂

東大寺四月堂

手向山神社

春日大社

若宮神社

東山緑地

新薬師寺

志賀直栽旧居

頭塔

元興寺塔跡

庚申堂

御霊神社

元興寺極楽坊

ならまち

恵比寿神社

率川神社

JR奈良


日本の戦争何の日年表

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 1936年(昭和11年)  1月15日 日本、ロンドン海軍軍縮会議から脱退 / 2月26日  二・二六事件勃発
 1937年(昭和12年) 7月7日  盧溝橋事件 / 7月29日 通州事件 / 11月6日  日独伊防共協定成立
 1938年(昭和13年) 4月1日 国家総動員法公布 / 5月5日 国家総動員法施行
 1939年(昭和14年) 3月15日全国の招魂社を護国神社に改称 / 5月12日  ノモンハン事件
           9月 賃金統制令 価格等統制令 / 10月 物価統制令 / 12月 木炭の配給実施
 1940年(昭和15年) 7月21日 日本労働総同盟解散 / 8月15日  立憲民政党解散 ( 議会制民主主義が実質上停止 ) 
           9月23日日本軍、北部仏印進駐 / 10月12日 大政翼賛会発会 /   
 
 
 
 
 
 1945年の日本本土空襲 / 日本の都市を無差別爆撃
1941~1945年の年表
 
  
 1941年 (昭和16年) 
 1941/04/01 米の配給制実施。
 1941/04/25 日ソ中立条約批准。
 1941/07/28 南部仏印( フランス領インドシナ ) 進駐
 1941/08 米、石油の対日輸出全面禁止  /  ABCD包囲網 - Wiki
 1941/11/22 国民勤労報国協力令公布
 1941/11/26 連合艦隊 択捉島単冠湾をハワイへ向け出発
 1941/12/08 米英蘭に宣戦布告。真珠湾攻撃。マレ-半島上陸  開戦の日の新聞
 1942年 (昭和17年) 
 1942/01/02 マニラ占領。
 1942/01/11 クアラルンプール占領。
 1942/01/23 ラバウル占領。
 1942/01/29 日系人強制収容大統領令9066号発効。
 1942/02/01 みそ.しょうゆ切符配給制実施
 1942/02/14 パレンバンへ降下。
 1942/02/15 シンガポール占領。
 1942/02/21 食糧管理法 制定。
 1942/03/08 ラングーン占領。
 1942/03/09 バンドン占領
 1942/04/18 ドーリットル空襲 ( 東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃 )
 1942/05/03 マニラ占領。マンダレー占領。
 1942/06/05 ミッドウェー海戦。敗北。死者3500名。
 1942/11/01 新聞統合令により各紙統合。
 1943年 (昭和18年) 
 1943/01/04 大本営ガダルカナル撤退命令。  ガダルカナル島の戦い
 1943/02/07 ガダルカナル撤退完了。死者2万3000行方不明2500。
 1943/06/25  学生の勤労動員始まる。
 1943/05/29 アッツ島守備隊2638名玉砕。
 1943/09/02 上野動物園で猛獣25頭毒殺
 1943/10/21 神宮外苑で出陣学徒壮行会
 1943/11/24 マキン島守備隊玉砕。
 1943/11/25 タラワ島守備隊玉砕。
 1944年 (昭和19年) 
 1944/01/29 横浜事件 ( 戦時下最大の言論弾圧 ) 戦前 戦中期日本の言論弾圧
 1944/02/01 米軍マーシャル諸島に上陸。6日6500名玉砕。
 1944/02/19 グリーン島守備隊玉砕。
 1944/02/23 ブラウン環礁(エニウェトク環礁)守備隊玉砕。
 1944/03/06 用紙不足のため、夕刊廃止
 1944/03/08 インパール作戦開始。4ヶ月で10万人全滅。 インパール作戦
 1944/06/15 米軍、サイパンに上陸。
 1944/06/19 マリアナ沖海戦。機動部隊全滅。空母の大半を失う。
 1944/07/07 サイパン守備隊玉砕。日本軍3万、民間人1万名死亡。
 1944/08/01 家庭用の砂糖の配給を停止。
 1944/08/03 テニアン守備隊8100名玉砕。
 1944/08/05 カウラ(豪)脱走事件、死者231名
 1944/08/10 グアム守備隊18000名玉砕。
 1944/08/22 学童疎開船対馬丸撃沈。死者1458名。
 1944/08/23 学徒勤労令、女子挺身隊勤労令 公布。
 1944/10/10 那覇空襲。沖縄各地に空襲。那覇市街の90%焼失。
 1944/10/16 陸軍特別志願兵令改正、17才未満の志願を許可。
 1944/10/18 兵役法施行規則改正、17才以上の兵役編入。
 1944/10/19  アンガウル島守備隊玉砕。
 1944/10/20 米軍、レイテ島(フィリピン)へ上陸開始。
 1944/10/23 農商省、ガソリンの代用品としての松根油 緊急増産対策措置要綱 決定。
 1944/10/24 レイテ沖海戦、海軍連合艦隊、壊滅。
 1944/10/25 神風特別攻撃隊、レイテの米艦隊へ突入。
 1944/11/13 日本野球報国会がプロ野球休止を表明。
 1944/11/20 人間魚雷回天、初出撃。
 1944/11/24 ペリリュー島守備隊12000名玉砕。
 1944/11/24 マリアナからの初空襲(武蔵野)。大規模な日本本土爆撃 始まる。
 1945年 (昭和20年) 
 1945年1月 
 1945/01 カーチス・ルメイが爆撃司令官に着任、市街地への無差別爆撃 始まる。
 1945/01/09 フィリピン、ルソン島に米軍上陸開始。
 1945/01/13 東海地方にM6.8の地震。死者2306名。
 1945/01/27  コレヒドール島守備隊玉砕。
 1945/01/27  B29、70機が、銀座を白昼爆撃。死者540人。
 1945年2月 
 1945/02/04 ヤルタ会談、(ルーズベルト、チャーチル、スターリン。) 
 1945/02/08 松根油(航空機燃料)緊急増産のため、農商省に松根油課 新設。
 1945/02/13 イギリスがドレスデン(ドイツ)空襲、死者3万5000。 ドレスデン爆撃
 1945/02/14 近衛文麿、昭和天皇に「敗戦必至」と上奏。  近衛上奏文
 1945/02/19 米軍、硫黄島上陸開始。 硫黄島の戦い
 1945年3月 
 1945/03/06 国民勤労動員令公布
 1945/03/10 東京大空襲。死者10万負傷4万 /  東京大空襲・戦災資料センター
 1945/03/11~12 名古屋空襲。死者519名負傷734名 名古屋大空襲
 1945/03/13~14 大阪大空襲。死者3987名負傷8500名。大阪大空襲
 1945/03/17 神戸大空襲。死者2599名負傷8564名。 神戸大空襲
 1945/03/17 硫黄島守備隊2万名玉砕。 硫黄島玉砕
 1945/03/19 名古屋空襲。死者826名負傷2728名。
 1945/03/23 米軍、沖縄本島攻撃、沖縄戦開始。
 1945/03/23 長野県松代に地下大本営工事開始。
 1945/03/24~25 名古屋空襲。死者1617名負傷770名。
 1945/03/26 米軍、慶良間諸島に上陸。31日占領。住民集団自決 沖縄戦
 1945/03/27 米軍、関門海峡に機雷敷設
 1945年4月 
 1945/04/01 緑十字船阿波丸撃沈(死者2004名)。 沖縄本島に米軍上陸。米軍の上陸戦闘
 1945/04/04 横浜、川崎空襲。死者398名負傷516名
 1945/04/05 ソ連、日ソ中立条約不延長を通告。
 1945/04/07  戦艦大和、撃沈。米艦載機は漂流する生存者を銃撃した。 坊ノ岬沖海戦
 1945/04/08 嘉数高地で沖縄中部戦線開始。
 1945/04/12 郡山(福島)空襲。死者460名。
 1945/04/13 東京空襲。死者2459名負傷4746名。
 1945/04/15 東京空襲。死者841名負傷1620名。
 1945/04/15~16 横浜、川崎空襲。死者972名負傷2212名
 1945/04/16 ベルリンの戦い 始まる ベルリン市街戦
 1945/04/28 ムッソリーニ 、ガルバルディ自由旅団が拘束、銃殺
 1945/04/30 ヒトラー自殺。 アドルフ・ヒトラーの死
 1945年5月 
 1945/05/08 ドイツ降伏。 ヨーロッパ戦勝記念日  完全に戦闘が終結したのは、5月11日
 1945/05/10 米統合幕僚長会議、九州上陸作戦と関東上陸作戦を承認。
 1945/05/11 神戸空襲。死者1203名負傷824名。
 1945/05/14 名古屋空襲。死者276名負傷783名。
 1945/05/22 沖縄守備軍司令部、首里撤退、戦場は南部へ移る
 1945/05/24 東京空襲。死者762名負傷4130名。
 1945/05/25 東京空襲。死者3651名負傷17899名。 
 1945/05/29  横浜、川崎空襲。死者3787名負傷12391名。横浜大空襲
 1945年6月 
 1945/06/01 大阪空襲。死者3112名。負傷10095名。
 1945/06/01 尼崎(兵庫)空襲。死者248名。負傷273名。
 1945/06/01 米国 スティムソン 委員会、トルーマン大統領に日本への原爆投下を勧告。 
 1945/06/05 神戸空襲。死者3454名。負傷6437名。
 1945/06/07 大阪空襲。死者2759名。負傷6682名。
 1945/06/07 豊中(大阪)空襲。死者541名。負傷844名。 
 1945/06/08 天皇臨席の最高戦争指導会議で「本土決戦」の方針。 本土決戦
 1945/06/09 名古屋空襲(熱田空襲)。死者2068名。負傷1944名。 熱田空襲
 1945/06/09 明石(兵庫)空襲。死者642名。負傷593名
 1945/06/10 日立(茨城)空襲。死者886名。負傷716名。
 1945/06/15 大阪空襲。死者477名。負傷2385名。
 1945/06/16 八幡空襲 八幡、小倉、戸畑、門司、若松。死者270名以上。
 1945/06/17 鹿児島空襲。死者2316名。負傷3500名。 
 1945/06/18 浜松(静岡)空襲。死者1157名。負傷431名。
 1945/06/18 四日市(三重)空襲。死者736名。負傷1500名。
 1945/06/18 大牟田(福岡)空襲。死傷者360名
 1945/06/18  ひめゆり部隊に解散命令。約1週間の間に多数の犠牲者を出す。ひめゆり学徒隊
 1945/06/19~20 静岡空襲。死者1669名。負傷600名。静岡大空襲
 1945/06/19 福岡空襲。死者902名。負傷1078名。福岡大空襲
 1945/06/20 豊橋(愛知)空襲。死者624名。負傷346名。
 1945/06/22 姫路(兵庫)空襲。死者341名。負傷350名。
 1945/06/23 沖縄,日本軍の組織的戦闘終結。戦闘終了は9月7日 慰霊の日
 1945/06/23 義勇兵士法公布。男15~60才.女17~40才対象
 1945/06/26 大阪空襲。死者681名。負傷983名
 1945/06/29 岡山空襲。死者1737名。負傷6026名。岡山大空襲
 1945/06/29 佐世保(長崎)空襲。死者1225名。佐世保大空襲
 1945/06/29 延岡(宮崎)空襲。死者130名。負傷59名。
 1945年7月 
 1945/07/01 連合軍、ドイツ分割占領。
 1945/07/01 熊本空襲。死者617名。負傷1317名。
 1945/07/01~2  呉(広島)空襲。死者1817名。負傷453名。
 1945/07/02 宇部(山口)空襲。死者204名。負傷479名。
 1945/07/02  下関(山口)空襲。死者307名。負傷774名。
 1945/07/03  姫路(兵庫)空襲。死者173名。負傷160名。 
 1945/07/04 高松(香川)空襲。死者1359名。負傷1034名。高松空襲
 1945/07/04  徳島空襲。死者984名。負傷2000名。
 1945/07/04  高知空襲。死者401名。負傷289名。
 1945/07/06 甲府空襲。死者1127名。負傷1239名。甲府空襲
 1945/07/07 千葉空襲。死傷者1204名。
 1945/07/07  明石(兵庫)空襲。死者355名。負傷190名。 
 1945/07/08 東京都「雑草の食べ方」の講習会を始める。
 1945/07/09~10  岐阜空襲。死者863名。負傷520名。
 1945/07/09  和歌山空襲。死者1101名。負傷4438名。和歌山大空襲
 1945/07/10 仙台空襲。死者1066名。負傷1689名。仙台空襲
 1945/07/10 大阪空襲。死者1394名。負傷1574名
 1945/07/10 最高戦争指導会議、近衛文麿のソ連派遣を決定。
 1945/07/11 食糧配給 1割削減、1日2合1勺となる。
 1945/07/12  宇都宮空襲。死者620名。負傷1128名。
 1945/07/12  敦賀(福井)空襲。死者109名。負傷201名。
 1945/07/14、15 室蘭艦砲射撃。死者557名。負傷1000名。
 1945/07/14、15 根室空襲。死者210名。負傷192名。
 1945/07/14、15 釧路空襲。死者192名。負傷273名。
 1945/07/14、15  函館空襲。死者79名
 1945/07/14 釜石(岩手)艦砲射撃。死者455名。負傷290名。   艦砲射撃について
 1945/07/14 青函連絡船など9隻が米艦載機によって撃沈。青函航路 壊滅。
 1945/07/16 アメリカ原子爆弾実験成功。
 1945/07/16  大分空襲。死者49名。負傷122名。
 1945/07/16 平塚(神奈川)空襲。死者330名。B29爆撃機の搭載弾及び搭載量
 1945/07/17、24 桑名(三重)空襲。死者416名。負傷364名
 1945/07/17 日立(茨城)艦砲射撃。死者317名。負傷376名。
 1945/07/17 沼津(静岡)空襲。死者274名。負傷505名。
 1945/07/18 ソ連、近衛文麿特使 受け入れ拒否。
 1945/07/19 日立(茨城)空襲。死者63名。負傷101名。
 1945/07/19 福井空襲。死者1684名。負傷6419名。  福井空襲
 1945/07/19~20 銚子(千葉)空襲。死者278名。負傷808名。
 1945/07/20 岡崎(愛知)空襲。死者207名。負傷348名。(5回の空襲の合算)  
 1945/07/22 P51 戦闘機200機、近畿各地を機銃射撃。
 1945/07/24 大阪空襲。死者214名。負傷329名。
 1945/07/24,28 津(三重)空襲。死者2400名。
 1945/07/25 トルーマン大統領、日本への原爆投下を指令。
 1945/07/25  大分県 保戸島国民学校(小学校)空襲。艦載機が児童に機銃掃射。
 1945/07/26 原爆、テニアン島へ到着。
 1945/07/26 松山(愛媛)空襲。死者259名。
 1945/07/26 徳山(山口)空襲。死者482名。負傷469名。
 1945/07/26 ポツダム宣言 発表  米、英、中華民国
 1945/07/27 大牟田(福岡)空襲。死者867名。
 1945/07/28 青森空襲。死者737名。負傷282名。 M74黄燐焼夷弾を実験使用した
 1945/07/28 大山口(鳥取)病客(*赤十字)列車銃爆撃、死者44名負傷31名
 1945/07/28 鈴木首相、ポツダム宣言黙殺 の談話。「 断固戦争完遂に邁進する。」
 1945/07/28,13 一宮(愛知)空襲。死者727名。負傷4187名。
 1945/07/29 宇和島(愛媛)空襲。死者100名。負傷172名。
 1945/07/30 駐ソ大使佐藤尚武、ソ連に和平斡旋を依頼。
 1945年8月 
 1945/08/1~2 長岡(新潟)空襲。死者1476名。  長岡空襲 ★★★
 1945/08/02 富山空襲。死者2745名。負傷7900名。富山大空襲
 1945/08/02 八王子(東京)空襲。死者225名。負傷221名
 1945/08/02 水戸(茨城)空襲。死者242名。負傷1293名。
 1945/08/03 米軍、機雷敷設で日本の港湾と内海航路を完全に遮断と発表。
 1945/08/04 今治(愛媛)空襲。死者454名。負傷150名。
 1945/08/05 前橋(群馬)空襲。死者535名。負傷600名。
 1945/08/05 猪鼻トンネル(東京.八王子)列車銃撃、死者52名負傷133名
 1945/08/5~6 神戸空襲。死者933名。負傷1924名。
 1945/08/5~6 西宮(兵庫)空襲。死者485名。負傷1750名。西宮空襲
 1945/08/06 芦屋(兵庫)空襲。死者89名。負傷129名。
 1945/08/06 広島へ原爆。死者14万±1万。(1945年末時点) 広島への原子爆弾投下
 1945/08/07 豊川(愛知)空襲。死者2500名。( 女子挺身隊員・国民学校児童ら)
 1945/08/08 八幡(福岡)空襲。死者2500名。
 1945/08/08 福山(広島)空襲。死者354名。負傷864名。
 1945/08/09  ソ連、満州へ侵攻開始。日本軍、民間人を見捨て退却。 ソ連対日宣戦布告
 1945/08/09 長崎へ原爆。死者7万3884名。負傷7万4909名。 長崎への原子爆弾投下
 1945/08/09 釜石(岩手)艦砲射撃。死者300名。負傷125名。
 1945/08 牡丹江事件 。満州国東満省で日本人避難民680人がソ連軍により虐殺された。
 1945/08/11 久留米(福岡)空襲。死者228名。負傷144名。
 1945/08/12 麻山事件 。満州国麻生区において、日本の開拓団がソ連軍の攻撃により421人が死亡。
 1945/08/14 熊谷(埼玉)空襲。死者234名。負傷3000名。
 1945/08/14 大阪空襲。死者359名。負傷33名。
 1945/08/14 光(山口)空襲。死者738名。
 1945/08/14 岩国(山口)空襲。死者517名。負傷859名。
 1945/08/14 葛根廟事件 。満州国興安総省葛根廟において日本人避難民1,000名以上が虐殺された。
 1945/08/15 ポツダム宣言受諾。無条件降伏。終戦。
 1945/08/18 ソ連軍、占守島上陸。守備隊と交戦
 1945/08/18 満州国皇帝溥儀退位。満州国消滅。
 1945/08/18 日本政府、陸軍・海軍の全部隊に停戦を命令。
 1945/08/20  真岡(樺太)をソ連軍が攻撃。氷雪の門事件。真岡郵便電信局事件
 1945/08/20 3年8ヶ月ぶりに灯火管制解除。信書検閲廃止。
 1945/08/21 天気予報4年ぶりに復活。
 1945/08/22 ソ連軍、樺太からの引揚げ船3隻を撃沈。死者1708名。
 1945/08/26 軍需省、大東亜省 廃止。農商務省を分割。
 1945/08/27 特殊慰安施設協会(RAA)占領軍向け性的慰安施設が大森海岸で開業。 / 敦化事件
 1945/08/28 ソ連軍、択捉島占領。9月5日までに北方4島を占領。
 1945/08/28 米軍先遣隊厚木到着。日本占領始まる。(~52/04/28)
 1945/08/30 マッカーサー厚木到着
 1945年9月 
 1945/09/01 ソ連軍、色丹島占領。
 1945/09/02  ソ連軍、国後島占領。 
 1945/09/02 ミズーリ艦上で降伏文書調印
 1945/09/02 朝鮮半島を米ソが南北に分割占領。( 日本軍から米軍に引き継ぎ式 )。
 1945/09/03  ソ連軍、歯舞諸島占領。
 1945/09/03 英紙記者バーチェットが「ノー・モア・ヒロシマ」を打電。
 1945/09/07 沖縄,日本軍残存部隊降伏。
 1945/09/09 米兵による略奪・暴行事件が発生。(米兵ギャング事件)
 1945/09/10 GHQ 新聞ラジオの検閲開始。
 1945/09/12 警視庁、頻発する米兵による犯罪の対策のため連絡室を設置。
 1945/09/15 東京日比谷にGHQ本部設置。(横浜より移転)
 1945/09/17 枕崎台風、死者行方不明3758名。
 1945/09/19 GHQプレスコード発令、言論統制始める。
 1945/09/20 文部省、教科書の墨塗りを指示。
 1945年10月 
 1945/10/02 進駐軍専用・優先列車 運転開始。
 1945/10/04 GHQ 治安維持法など廃止を指示。
 1945/10/06 特別高等警察廃止。
 1945/10/10 徳田球一ら、政治犯約3000人が釈放。
 1945/10/15  治安維持法廃止。
 1945/10/24 国際連合発足
 1945年11月 
 1945/11/06 GHQ 学校での武道の授業を禁止。財閥解体指令。
 1945/11/21 治安警察法廃止。
 1946年 (昭和21年) 
 1946/01/03 富坂警察署襲撃事件
 1946/01/28 GHQ: 映画検閲 指令
 1946/02/03 通化事件  通化市で中国八路軍と朝鮮八路軍によって日本人3000人が虐殺された。
 1946/02/20 ソ連が千島列島・樺太の領有を布告
 1946/02/26 極東委員会 (FEC)第1回会議 開催。ソ・豪・英、天皇制廃止を主張。
 1946/02/28 公職追放令公布
 1946/04/18 国際連盟 解散 決議
 1946/05/01 メーデー、11年ぶりに復活。
 1946/05/03 極東国際軍事裁判所開廷
 1946/05/13 長崎警察署襲撃事件
 1946/05/19 食糧メーデー。皇居前広場に25万人が参集。(プラカード事件)
 1946/05/31 昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
 1946/06/02 極東委員会(FEC)、天皇制維持案を米が提案。
 1946/06/04 極東委員会(FEC)、天皇制の存否に関して初めて討議に入る
 1946/07/01 米ビキニ環礁で原爆実験
 1946/07/19 渋谷で台湾人と武装警官が銃撃戦。(渋谷事件 )
 1946/07/23 東条村強盗事件
 1946/08/05 富山駅前派出所襲撃事件
 1946/09/29 新潟日報社襲撃事件
 1946/11/03 日本国憲法公布
 1946/12/20 首相官邸デモ事件 。在日朝鮮人による首相官邸襲撃事件
 1946/12/21 昭和南海地震 ( M8.0 )、和歌山県潮岬沖で発生(死者1443名)

長野県スキーバス転落14人死亡

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ニュース詳細

スキーバス転落で14人死亡 バス会社を捜索へ
1月15日11時27分

スキーバス転落で14人死亡 バス会社を捜索へ
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15日午前2時ごろ、長野県軽井沢町のバイパスでスキー客を乗せたバスが道路から転落し、警察によりますと、バスに乗っていた41人のうち乗客12人と乗員2人の合わせて14人の死亡が確認されました。このほか27人が病院に搬送されて手当てを受けていて、この中には意識がない人もいるということです。警察は過失運転致死傷の疑いで東京のバス運行会社を捜索する方針です。
15日午前2時ごろ、長野県軽井沢町の国道18号の碓氷バイパスで、スキーツアー客を乗せて群馬方面から長野方面に向かっていたバスが、反対車線に出てガードレールを乗り越え、道路の下に転落しました。
このバスには乗客39人と乗員2人の合わせて41人が乗っていて、警察によりますと、乗客12人と運転手ら乗員2人の合わせて14人の死亡が確認されました。14人のうち9人が男性で、5人が女性だということです。また、27人が病院に搬送されて手当てを受けていて、病院によりますと、この中には意識がない人もいるということです。乗客の多くは10代や20代の若い人だということです。
このスキーツアーを企画した東京・渋谷区の「キースツアー」によりますと、このバスは14日夜、東京を出発して、長野県飯山市の斑尾高原に向かっていたということです。
現場は入山峠から長野県方面に1キロほど下ったところで、上りが2車線、下りが1車線になっています。バスは下りの車線を走行していて、反対車線のガードレールを乗り越えて、およそ3メートル下に転落したということです。車体は道路下の木に当たった状態で横転していて、天井部分などが大きくえぐられるようにへこみ、めちゃめちゃに壊れています。
道路を管理する高崎河川国道事務所によりますと、碓氷バイパスのおよそ16キロの区間には合わせて45か所のカーブがあり、事故が起きたのは群馬県側から数えて43か所目のカーブだったということです。現場のカーブはゆるやかで、当時、路面は凍結などはしていませんでした。
警察は東京・羽村市のバス運行会社の関係者から事情を聞いているほか、過失運転致死傷の疑いで会社を捜索する方針で、事故が起きた原因について調べを進めることにしています。

東宇治史跡、寺院探訪ウォーク

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2016年1月17日、宇治市歩こう会。8K、参加者76名
東宇治史跡探訪ウォーク

宇治公民館
例会に50回、100回、150回参加者に宇治市長賞

厳島神社=
宇治市菟道の静かな住宅街の中にある厳島神社。777年降雨祈願のため広島の厳島神社と同じ
市杵嶋比売命(イチキシマヒメノミコト)を歓請し、社殿を建てたと考えられています。


安養寺=
安養寺は都の辰巳、即ち京都市から南西方向、宇治市に位置します。西院よりの駅は京阪電車の三室戸駅・JR宇治駅で、黄壁山万福寺と平等院の中間辺りに位置します。寺の前を通る道路は旧奈良街道と呼ばれ、その昔京都の都から奈良の都を結び牛車が通ったと云われる古い街道です。寺は主にこの地域に住む茶師の帰依を受け繁栄し現在に至っています。元は天台宗で、天文7年(1538)に増念誉助心が再興してから浄土宗に改められ、現在地に移転したのは貞享2年(1685)と云われています。

蔵林寺=986年恵心僧都開創したが荒廃したため
1470年再興された。
地蔵菩薩立像、毘沙門天立像。薬師如来坐像などある。ここにあるむくの木は樹齢500年


隼上り瓦窯跡=1982年宅地造成中に4基発見
1986年6月9日国指定史跡に
蘇我氏の氏寺豊浦寺に供給


許波多神社鳥居柱=五ヶ庄の旧社の鳥居の柱


許波多神社跡=現代五ヶ庄許波多神社の旧地


黄檗公園、昼食


萬福寺=
黄檗宗は、中国・明時代の高僧隠元隆禅師が1654年に日本に来られ、伝え、広めた禅宗の一派です。臨済宗の流れをくんでいるのですが、四代将軍家綱より許可を得て、宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められたのです。
 萬福寺は中国明朝の伽藍様式を取り入れて、他の宗派にはない中国風な香りを感じることができる寺院です。
  総門の屋根の上には摩伽羅(まから)という像があります。摩伽羅とはガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉です。アジアでは、聖域結界となる入り口の門・屋根・仏像等の装飾に使われています。


宇治村道路元標=
宇治市内に宇治橋西詰に宇治町、槙島堤に槙島村の
道路元標がある


許波多神社(五ヶ庄)=明治9年宇治火薬庫用地になった為旧御旅所に移築、本殿は重文
天忍穂耳命のほか瓊々杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀る。
社伝では、大化元年(645年)、蘇我倉山田石川麻呂の奏上により、孝徳天皇中臣鎌足に命じて木幡荘に皇祖を祀る神殿を造営させたのに始まると伝えられる。当時は柳山の地に社殿があったことから「柳大明神」と呼ばれるようになり、江戸時代までは「柳神社」を正式の社名としていた。明治時代、陸軍宇治火薬製造所(現 陸上自衛隊宇治駐屯地)の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ、当社は御旅所であった旧岡田村内の現在地に遷座し、その際に社名を旧称の許波多神社に改称した。


寺界道遺跡=


藤原氏えい域、宇治陵1号墳=


西導寺=
 広芝の地にあった二階堂という庵室を、慶長10年 (1605) 円誉(えんよ)上人が寺として再興。享保10年 (1730) に現在の地に移った。付近の廃寺から伝えられたとされる多くの仏像がある。毘沙門天像も、もとは五ヶ庄地域の南端に営まれた畑寺にあり、明治初年にそれが廃寺となり、本寺に移安されたと伝えられる。平安時代後期の作で、桧材一木造り・像高103.0cm。
 両足・岩座部分が本体と一体で、底部が削り取られていて安定性を著しく欠く。幾度も転倒し、上体部剥ぎ目が離れ、現在は横にして保管していたため、剥ぎ目を強固に接合の上、像の立ちの安定を図る修理に対して助成を行った。(平成17年度)


二子塚古墳=1914年京阪宇治線建設により後円部
破壊され、その後発掘、調査、1995年公園に
前方後円墳、6世紀初期築造

能化院=坂上田村麻呂が桓武天皇の勅願により建立
802年延鎮自作の八尺の千手観世音安置
998年恵心僧都再建、地蔵菩薩像(重文)自作
1159年、1221年に焼失したが地蔵菩薩は難を逃れた。常盤御殿の腰かけ残る

JR木幡=奈良鉄道1896年1月25日開業
1905年2月奈良鉄道は関西鉄道に吸収される。
1907年関西鉄道国有化に

近畿地方の城郭

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近畿地方の城郭

河内・丹南陣屋
城郭放浪記

丹南陣屋の写真写真館(14枚)
  形態  
陣屋
  歴史  
元和9年(1623年)高木正次によって築かれたと云われる。 高木氏は三河国碧海郡高木村を本貫とする清和源氏の後裔で、水野氏などに仕えた後、徳川家康に仕えた一族である。
初代高木正次は関ヶ原合戦の後七千石を所領とし、大坂の陣で二千石を加増、元和9年(1623年)には大坂定番に任ぜられて一千石を加増され、都合一万石となって諸候に列した。高木正次を祖とする丹南藩は一万石のまま十三代続き、高木正善のとき明治に至る。
下野の出張陣屋として下野国五十部陣屋がある。
  説明  
丹南陣屋は来迎寺の東隣に築かれていた。 来迎寺は高木氏の菩提寺で墓も残されているが、陣屋があった場所は商業施設や宅地などとなり遺構はない。
現在来迎寺に案内板と石碑が設置されている。
  城主  
高木正次,高木正成,高木正弘,高木正盛,高木正豊,高木正陳,高木正恒,高木正弼,高木正直,高木正剛,高木正明,高木正坦,高木正善
 所在地 
大阪府松原市丹南3(来迎寺)

京都通りの歌

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京都市通りの歌

南北の通り(寺御幸)

てらごこふやとみ やなぎさかい
たかあいひがし くるまやちょう
からすりょうがえ むろころも
しんまちかまんざ にしおがわ
あぶらさめがいで ほりかわのみず
よしやいのくろ おおみやへ
まつひぐらしに ちえこういん
じょうふくせんぼん はてはにしじん
寺御幸麩屋富柳堺
高間東車屋町
烏両替室衣
新町釜座西小川
油醒ヶ井で堀川の水
葭屋猪黒大宮へ
松日暮に智恵光院
浄福千本果ては西陣
町、御幸町、麩屋町、小路、馬場、町、倉、之町、洞院、車屋町丸、両替町、町、棚、新町釜座西洞院、小川小路、醒ヶ井堀川葭屋町、熊、門、大宮屋町、日暮智恵光院浄福寺、千本
西陣」は通りの名ではない。

東西の通り(丸竹夷)

まるたけえびすに おしおいけ
あねさんろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまんごじょう
せったちゃらちゃら うおのたな
ろくじょうさんてつ とおりすぎ
ひっちょうこえれば はっくじょう
じゅうじょうとうじで とどめさす
丸竹夷二押御池
姉三六角蛸錦
四綾仏高松万五条
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
六条三哲通りすぎ
七条越えれば八九条
十条東寺でとどめさす
太町、屋町、川、条、小路、御池小路、条、六角薬師、小路、条、小路、光寺、辻、原、寿寺、五条、 (雪駄屋町)、屋町、(屋町)、(魚棚)、六条三哲七条八条九条十条東寺
尚、雪駄屋町通は現在楊梅通、銭屋町通は現在的場通、魚の棚通は現在六条通。三哲は塩小路通
下を「五条」で唄を終えることもある。また、魚の棚以南の個所には異なって伝わっている歌詞が多くある。比較的よく歌い慣らされているのは、上記の通り、十条通を歌い込むものだが、三哲通(塩小路通)が七条通より早く歌われるとともに、九条通にある東寺を十条通とともに掲げるなど、実際の通りの順序と異なって歌われている。さらに十条通は昭和期に作られた新しい通りであることなどから、語呂合わせを混ぜながら時代により変化していたとも考えられている。
なお、上は丸太町通から始まっているが、江戸時の町家の上手は概ね丸太町から始まり、下は五条程度であった。また、昭和初期まではその外では田畑も多かった。このため終わりが七条までになっている歌詞もある(下表参照)。
せったちゃらちゃら うおのたな
じゅずやふたすじ まんねんじ
ひっちょうこえて とおりみちなし
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
珠数屋二筋万年寺
七条越えて通り道なし
尚、万年寺通は現在花屋町通で、「珠数屋二筋」の上珠数屋町通下珠数屋町通より北にあり、これも通りの順序が入れ替わって唄われている(中珠数屋町通である正面通は唄われていない)。
また、通りを歌う順番を実際の並びの通りに示した歌詞もある(下表参照)。
せったちゃらちゃら うおのたな
ひっちょう さんてつ とおりすぎ
はっちょうこえれば とうじみち
くじょうおおじで とどめさす
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
七条三哲通りすぎ
八条越えれば東寺道
九条大路でとどめさす
また、丸竹夷の最初につけて丸太町通から北の東西通り名を歌いこむ歌詞として、以下のものがある。
くらやてら かみだちいつつ いまやもと
むいちなかだち ちょうじゃみとおり
でみずしも さわらぎ…
鞍や寺 上立五つ 今や元
武一中立 長者三通り
出水下 椹木…
馬口、之内、立売、辻、出川、誓願寺、者小路、条、中立売、上・中・下長者町、出水立売、椹木
また、丸竹夷も、寺御幸についても、上に掲げるもの以外のバリエーションは数多く存在する。また、丸竹夷(東西の通り)に続いて、寺御幸(南北の通り)を歌うものもある。
寺御幸
  • 「浄福千本さては西陣」(じょうふくせんぼんさてはにしじん)
丸竹夷
  • 「九条十条でとどめさす」(くじょうとうじょで とどめさす)

その他

その他有名なものとして、丸太町通から松原通までの東西の通りを歌うものとして以下のものがある。
ぼんさんあたまはまるたまち
つるっとすべってたけやまち
みずのながれはえびすがわ
にじょうでこうたきぐすりを
ただでやるのはおしこうじ
おいけでおうた(でおうた)あねさん
ろくせんもろうてたここうて
にしきでおとしてかられて
あやまったけどぶつぶつと
たかがしれた(て・と)るどしたろ
丸太町
竹屋町
夷川
二条
押小路
御池小路通 条通
角通 薬師通
小路通 条通
小路通 光寺通
辻通 原通

大相撲元横綱琴桜の孫序の口優勝

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元横綱琴桜(祖父)、元関脇琴の若(父)
琴桜の孫琴鎌谷が序の口優勝
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琴桜の孫が優勝=大相撲初場所13日目

時事通信 1月22日(金)16時26分配信
 佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)の長男、琴鎌谷(佐渡ケ嶽部屋)が7戦全勝で序ノ口優勝を果たした。この日も大きな体を生かして前に出る内容で「優勝のことを考えずに自分の相撲を取ろうと思った」と落ち着いた口調で語った。「勝ち負けより自分の相撲を取り切ることを考えたい。まずは関取を目標に」。元横綱の琴桜を祖父に持つ大器は、浮かれるそぶりも見せなかった。

己の縁起、神社。寺院

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上神明天祖神社
東京都品川区

大豊神社
京都市左京区鹿が谷

磯山弁財天
栃木県佐野市出流原町

500_24742239
入り口には「白蛇さま」が祀られています


久下田白蛇弁財天
栃木県
 

白蛇神社
山口県岩国市今津町

阿蘇白蛇神社
熊本県南阿蘇村

高天ヶ原神社
埼玉県川越市

大谷観音
栃木県宇都宮市

三室戸寺
京都府宇治市菟道


岩国 白蛇神社白蛇神社お守り阿蘇白蛇神社白蛇神社ご利益白蛇神社財布福井県 白蛇神社白蛇神社京都白蛇神社宮崎白蛇神社山口上田 白蛇神社

珍しい狛犬

神々しい「蘇羅比古神社」と、空を見つめる狛犬


広島県庄原市本村にある「蘇羅比古神社」へ行きました。
平安時代に作られた「延喜式神名帳」の記載では「蘇羅比古神社」は、備後国三上郡の小社で、祭神は、天津日高日子穗穗手見命(あまつひこひこほほでみ)、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」とあります


www.geocities.jp/shibakin2002/hanazono-2.html - キャッシュ。クリックしてください。
石楠花に包まれる「拝殿」, 茨城百景・観光百選 「花園神社」, 花園神社の境内(05/05/ 05). 鎮座地:北茨城市華川町花園567 mapion ... 花園神社の創立は、約1200年前の 昔、延暦14乙亥年年(795年)、征夷大将軍「坂上田村磨」が奥州下向の折に、草創され たといわれて ... 御本殿の前の狛犬(右側) ... 北茨城市商工会 茨城県林業技術センター

    常堅寺までは、駐車場から長閑な畑の小道を数分歩きます。 寺院の裏手の小川が、『遠野物語』で有名なカッパ淵です。 境内には河童に因んだ石碑や、カッパ狛犬もいます。 カッパで有名ではありますが、常堅寺自体も室町時代の1490年に創建された由緒ある寺院で、特に山門と阿吽像は重厚な歴史を感じさせます。

    戦災で焼失した国宝

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    原爆被害

    日本本土への艦砲射撃民間船舶の被害 鉄道車両への機銃掃射

    その他の被害[編集]


    甘利経済再生担当相辞任表明

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                     甘利経済再生相 辞任を表明
    2016年1月28日(木) 17時42分掲載

    甘利経済再生担当相が辞任表明

     甘利明経済再生担当相(66)=衆院神奈川13区=は28日夕、内閣府で記者会見し、週刊文春が報じた金銭授受疑惑の責任を取って辞任すると表明した。甘利氏はこれに先立ち、安倍晋三首相に辞意を伝えた。首相は平成28年度予算案など重要法案の審議や今夏の参院選に影響を与えかねないと判断した。野党は首相の任命責任への追及を強める構えだ。(産経新聞)
    [記事全文]

    「生き様に反する」

    毎日新聞(2016年1月28日)

    2回の現金授受認める

    NHK(2016年1月28日)
    時事通信(2016年1月28日)

    会見の中継サイト

    THE PAGE(2016年1月28日)

    週刊文春が報じた疑惑

    週刊文春(2016年1月20日)
    週刊文春(2016年1月27日)

    辞任をどう思う?

    意識調査

    関連トピックス




    甘利氏辞任 経済再生相後任に自民党の石原伸晃元幹事長

     安倍晋三首相は28日、辞任を表明した甘利明経済再生担当相の後任に、自民党の石原伸晃元幹事長を起用する意向を固めた。(産経新聞)





    後任に

    平安貴族の雅と新緑ウォーク2014年5月22日

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    平安貴族の雅と新緑ウォーク2014年5月22日。12K
    京都府ウォーキング協会

    JR奈良線宇治駅=
    1896年明治29年)1月25日 - 奈良鉄道桃山駅 - 玉水駅間延伸時に開業。 1905年(明治38年)2月7日 - 合併により関西鉄道の駅となる。 1907年(明治40年)10月1日 - 関西鉄道が国有化国鉄の駅となる。 1984年昭和59年)2月1日 - 貨物列車の設定廃止。
    • 駅南側にあるユニチカ宇治工場に向けて専用線が分岐し、タンク車による化学薬品の輸送が行われていた。
    1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。


    夢浮橋=
    薫君(かおるのきみ)は、小野の里にいるのが、浮舟であることを聞き、涙にくれる。そして僧都にそこへの案内を頼んだ。僧都は、今は出家の身である浮舟の立場を思い、佛罰を恐れて受け入れなかったが、薫君が道心(どうしん)厚い人柄であることを思い、浮舟に消息を書いた。
     薫君は浮舟の弟の小君(こぎみ)に、自分の文(ふみ)も添えて持って行かせた。
     浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。
     小君は姉の非情を恨みながら、仕方なく京へ帰って行った。薫君はかつての自分と同じように、誰かが浮舟をあそこへかくまっているのではないかとも、疑うのだったとか。

    世界遺産平等院=

    平等院の創建[編集]

    浄土式庭園と鳳凰堂
    京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。


    塔の島=
    十三重の石塔(重要文化財)
    十三重の塔(重文)


    宇治神社=
    菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
    『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
    本殿では、莵道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)を祀っている


    早蕨=

           年改まり、宇治の山荘にも春が来た。
    今年も山の阿闇梨(あざり)から蕨や土筆(つくし)などが贈られてきた。
     中君(なかのきみ)は亡き父君や姉君を偲びつつ

       この春はたれにか見せむ亡き人の
          かたみにつめる峰の早蕨

    と返歌なさった。
     二月の上旬、中君は匂宮(におうのみや)の二条院へ迎えられ、行先の不安を感じつつも、幸福な日々が続く。
     夕霧左大臣は、娘の六君(ろくのきみ)を匂宮にと思っていたので、失望し、薫君(かおるのきみ)にと、内意を伝えたが、大君(おおいきみ)の面影を追う薫君は、おだやかに辞退した。
     花の頃、宇治を思いやる薫君は、二条院に、中君を訪ねては懇ろに語るが、匂宮は二人の仲を、疑い始める。

    世界遺産宇治上神社=
    中央の内殿、「中殿」は応神天皇を、「左殿」(向かって右側)は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ:応神天皇の末の皇子)を、「右殿」(向かって左側)は仁徳天皇(応神天皇の皇子)を祀っている。

     左の写真は中央の内殿「中殿」である。

    総角=
     八宮(はちのみや)の一周忌がめぐって来た。薫君(かおるのきみ)は仏前の名香(みょうごう)の飾りに託して、大君(おおいきみ)への想いを詠んだ。

     総角に長き契りを結びこめ
        おなじ所によりもあはなむ

     大君は父君の教えに従い、自らは宇治の山住みで果てる意思が堅く、妹の中君(なかのきみ)をこそ薫君に委ねたいと望まれた。
     薫君は中君と匂宮(におうのみや)とが結ばれることによって、大君の心を得ようとされたが、意外な結果に事が運ばれてしまう。
     匂宮は中君と結ばれたが、気儘に行動され得ない御身分故、心ならずも宇治への訪れが遠のく。大君は「亡き人の御諌めはかかる事にこそ」と故宮をしのばれ、悲しみのあまり、病の床につき、薫君の手あつい看護のもとに、冬、十一月に、薫君の胸に永遠の面影を残して、帰らぬ人となった。


    源氏物語ミュージアム

    蜻蛉=
    宇治の山荘は、浮舟(うきふね)の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君(かおるのきみ)も匂宮(におうのみや)も悲嘆の涙にくれたが、思いはそれぞれ違っていた。
     事情を知った薫君は、自らの恋の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。
     六条院では、明石中宮(あかしのちゅうぐう)が光源氏や紫上(むらさきのうえ)のために法華八講(ほっけはっこう)を催された。都では、華やかな日々を送りながらも薫君は、大君(おおいきみ)や浮舟との「つらかりける契りども」を思い続けて愁いに沈んでいた。
     ある秋の夕暮、薫君は、蜻蛉がはかなげに飛び交うのを見て、ひとり言を口ずさむのだった。



    隼上り瓦窯跡=
    京都府宇治市莵道(うどう)にある窯跡。京都府南部、宇治川中流にある宇治橋の北東約1.5kmに位置し、東から西に延びる丘陵の南斜面に所在。4基の窯跡、工房跡、灰原などが検出されたが、出土した軒丸瓦(のきまるがわら)の多くは奈良県高市郡明日香村にある豊浦(とゆら)寺跡から出土した瓦と同笵(どうはん)であり、50kmも離れた寺院に供給されていたことが判明した

    黄檗公園、=昼食
    周辺軍事工場跡、火薬工場跡、許波多神社跡碑
    陸軍省用地碑などある

    黄檗トンネル、長さ620m=

    接続道路



    平尾台児童公園

    日野誕生院=
    本願寺第十九代宗主本如上人は、文化年間(1804~1818年)に日野氏の由緒地を調査し、親鸞の父である日野有範(ありのり)公に因み「有範堂」を建立した。その後、第二十一代宗主明如上人の時代に本願寺の飛地境内地として「日野別堂誕生院」と改称した。また境内地西側には親鸞誕生の際に使用されたと伝わる「産湯の井戸」と親鸞のへその緒を納めた「胞衣(えな)塚」がある

    日野法界寺=
    平安時代後期の永承6年(1051年)、もと文章博士で後に出家した日野資業が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、日野家に代々伝わる、伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入したという。
    寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、日野資業の4代前の藤原家宗弘仁13年(822年)、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとするものである。


    日野児童公園、トイレ

    醍醐中学校

    一言寺=
    もとは藤原通憲(信西)の娘で建礼門院に仕えた阿波内侍の開基により創建されたと伝えられ、この寺の南側からは1973年昭和48年)の発掘調査により、鎌倉時代庭園跡などが発見されている。創建されて以後寺は次第に衰退したが、1874年明治8年)醍醐寺塔頭である金剛王院が移されて復興された。

    黒門=
    醍醐寺の黒門付近で、塀の塗替え作業に思わず立ち止まってしまいました。伝統文化の継承に携わっていらっしゃる方に敬意を払います

    醍醐寺三宝院=
    874年貞観16年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝笠取山に醍醐寺を創建した。山頂付近は「上醍醐」、山麓一帯は「下醍醐」と呼ばれ、堂塔伽藍が立ち並び繁栄した。三宝院は1115年永久3年)、醍醐寺第14代座主勝覚が開いたもので、歴代の座主を輩出し、1428年(応永35年)以降は三宝院主が醍醐寺座主の地位を独占した。しかし醍醐寺は1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱の兵火に巻き込まれ、三宝院を含む多くの建物が焼失し、一帯は荒廃してしまう。

    京都市営地下鉄醍醐駅


    真田幸村生涯年表

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    • 真田幸村の生涯が簡単にわかる年表

    真田幸村の生涯が簡単にわかる年表

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    波瀾万丈の生涯を遂げた真田幸村こと真田信繁、巷間伝わる逸話の中には後世に軍談物や講釈によって脚色された真田十勇士を率いての活躍など、伝説的なものも多いのですが、ここでは確認できる史料を中心にした年譜を簡単にご紹介していきます。

    真田幸村の生涯

    永禄10年(1567年)

    真田幸村誕生。 父は真田昌幸、母は正室山手殿。兄に真田信之。
    昌幸は当時、武田信玄の母方の大井氏の支族である武藤家の養子となり、武藤喜兵衛昌幸を名乗っていました。身分は騎馬15騎、足軽30人を率いる足軽大将であったと伝えられています。
    このころの真田家は信濃国小県群国衆で、幸村の祖父にあたる幸綱が一族を統括し、武田信玄の重臣となっていました。

    天正3年(1575年)

    長篠の戦いにおいて父・昌幸の長兄信綱、次兄昌輝が戦死したため、昌幸は真田家当主となり、幸村も甲府を離れ、城代を務める上野国岩櫃城へ移ります。

    天正10年(1582年)

    3月11日 織田・徳川連合軍の侵攻によって武田勝頼が一族とともに自決し、武田家は滅亡すると、昌幸は信長に恭順し、上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されます。
    6月 本能寺の変により信長が横死すると、越後の上杉、相模の北条、三河の徳川の間に武田遺領巡る天正壬午の乱が起こり、真田氏も武田の遺臣と遺領を取り込むべく画策します。

    天正13年(1585年)

    7月15日 武田旧領を巡る混戦の中で上杉、北条、上杉と同盟相手を次々に替えていた昌幸は、最終的に上杉景勝に臣従し、幸村は人質として上杉家に送られます。
    幸村は徳川家との第一次上田合戦に出陣し、徳川に属した屋代氏の旧領が与えられています。
    小牧・長久手の戦いを経て天下の形成が豊臣秀吉に傾くと、上杉氏は豊臣家を盟主と仰ぎ、人質であった幸村も大坂に送られたため真田家は豊臣氏に臣従することとなります。

    天正18年(1590年)

    3月 幸村は父・昌幸、兄・信幸とともに小田原北条氏攻略戦参加、真田家は石田三成の指揮下に入り、大谷吉継らと忍城攻めに加わります。
    4月 昌幸は上野国松井田城攻めを命じられます。 この松井田城攻略戦が幸村の初陣となりました。

    天正19年(1591年)

    6月 陸奥では葛西大崎一揆、九戸政実の叛乱が起こったため、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、引き続いて奥州征伐を実行します。 幸村も、昌幸、信之と共にこれに加わっています。

    文禄元年(1592年)

    2月 真田家は朝鮮の役に出陣を命じられ、幸村も父、兄と共に肥前名護屋に赴きます。 名護屋での真田家の役目は後備であったらしく朝鮮へは渡海していません。

    文禄3年(1594年)

    11月2日 幸村は従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されます。 またこのころ、豊臣家の重臣である大谷吉継の娘・竹林院を正室に迎えています。
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    慶長5年(1600年)

    7月 豊臣秀吉没後、大坂城に入った徳川家康は、会津の上杉征伐を敢行。 幸村は父、兄とともに関東に向かいます。
    同月、豊臣五奉行から、家康討つべしとの連署状が出され、下野犬伏の真田家の陣に石田三成の密使が到着します。
    ここで、昌幸、信之、幸村は今後の去就を話し合い、徳川重臣・本多忠勝の婿であった信之はこのまま徳川方に、幸村と昌幸は大坂方に就くことを決して別れます。
    9月6日 幸村は昌幸と共に信州上田城に籠り、中山道制圧を目的とした徳川秀忠の大軍を相手に奮戦し、ついに秀忠軍が関ヶ原の合戦に参戦するのを妨げるという軍功を挙げます。
    12月12日 9月15日に行われた関ヶ原合戦で西軍が敗北すると、幸村と昌幸は敗軍の将となりますが、信之とその舅の本多忠勝の助力もあって死をまぬがれ、紀伊国高野山麓の九度山に配流されます。

    慶長17年(1612年)

    九度山幽閉中の幸村は入道して好白と号します。父・昌幸はすでに前年病死しています。

    慶長19年(1614年)

    10月1日 徳川家康が大坂追討を下令すると、豊臣家は諸国の浪人を集める策を採り、幸村にも密使を派遣して参戦を促します。
    10月9日 豊臣の密命を受けた幸村は九度山を脱出、嫡子大助とともに大坂城に立て篭もる一方、信濃の真田の旧臣にも檄をとばします。
    12月4日 東軍は幸村が玉造口に築いた出城の真田丸を攻めますが、幸村は鉄砲隊を駆使した巧妙な采配によってこれを退けます。
    12月20日 大坂方と東軍の間に和議が成立して大坂冬の陣は終結、幸村父子は内に留まります。

    慶長20年(1615年)

    2月 徳川方は大坂城の備えを崩すため、真っ先に真田丸を破却すると共に、叔父の真田信伊を使者として幸村の寝返りを促します。 しかし、幸村は恩賞としての十万石の所領、信州一国の大名という甘言にも耳を貸さず、これをはねのけます。
    4月6日 徳川家康が再び大坂攻めを断行すると、幸村は決死の覚悟で大坂城に籠城します。
    5月6日 大坂夏の陣の転換点となる道明寺の戦いが起きます。 この戦いでは、濃霧のために真田隊の戦場到着が遅れ、後藤又兵衛、薄田隼人正ら大坂方の名だたる将が討たれるという事態になります。
    しかし、幸村は鉄砲隊を巧みに操って追撃して来る伊達政宗の先鋒を後退させ、豊臣方の撤退を成功させるという功を立てます。
    5月7日 損耗が激しい大坂方が形勢を挽回するには大将豊臣秀頼の出陣しかないと考える幸村は、大助を大坂城に人質として送って秀頼の出馬を乞います。しかしそれは果たせず、死を覚悟の最後の作戦を立案します。
    家康本陣の右翼に真田隊、左翼に毛利隊勝永を配し、銃撃と突撃をくり返して敵本陣が孤立した隙に、明石全登隊が横合いから急襲するというこの作戦は、功を急ぐ毛利隊の発砲によって破綻し、幸村は正面突破で家康の首を狙うという強襲を行います。
    この結果、家康の本陣深くまで攻め入ったものの、最後には数に勝る徳川勢の反撃を受け、四天王寺近くの安居神社まで撤退したところで、越前松平家の鉄砲組西尾宗次に首級を授けることとなりました


    真田幸村の年表

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    真田幸村の簡易年表です。

    和暦 西暦幸村の事象 年齢 主な出来事
    永禄十年1567誕生。父昌幸、母山之手殿。武藤弁丸。1歳
    天正二年1574祖父幸隆死去。8歳
    天正三年1575昌幸、真田家を継ぐ。真田弁丸。9歳長篠の戦い
    天正十年1582真田家の主家、武田氏滅ぶ。16歳本能寺の変
    天正十三年1585幸村、上杉景勝の人質となる。19歳第一次上田城の戦い
    天正十四年1586幸村、豊臣秀吉の人質となる。20歳
    天正十八年1590北条攻め。幸村、初陣か?24歳北条氏滅亡
    文禄三年1594幸村、従五位下左衛門佐に任ぜられる。豊臣の姓を承る。豊臣信繁。この頃大谷刑部の娘と結婚?28歳
    慶長三年1598幸村、このころ伏見城にて豊臣家に仕える。32歳豊臣秀吉死去
    慶長五年1600兄の信幸は徳川方へ、幸村は父の昌幸と共に石田方へつく(犬伏の別れ)。
    昌幸幸村、上田城で徳川秀忠軍を破る(第二次上田城の戦い)。
    12月頃、幸村昌幸と共に、高野山九度山村へ蟄居。この頃長男大助生まれる(翌年、翌翌年か)。
    34歳関ヶ原の戦い
    慶長十四年1609弟信勝逐電もしくは斬殺される。43歳
    慶長十六年1611昌幸死去。45歳二条城の会見
    慶長十七年1612幸村、好白と号す。次男大八生まれる。46歳
    慶長十八年1613昌幸の妻、山之手殿死去。47歳
    慶長十九年1614幸村、豊臣家の誘いにより紀州九度山の蟄居先を脱出し、10月大坂城へ入城。大坂冬の陣がはじまる。
    12月4日、幸村、大坂城の出城(真田丸)で徳川軍を破る。
    豊臣家と徳川家の和平なる。
    48歳大坂冬の陣
    慶長二十年1615豊臣家と徳川家、再び開戦。5月6日、幸村、誉田の戦いで徳川方と戦い、撤退す。
    5月7日、天王寺表の戦い。家康本陣を蹴散らすも奮闘虚しく戦死。
    49歳大坂夏の陣

    白鵬長男初土俵

    真田一族の史跡

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    ◆真田一族関係史跡一覧◆
    所在先
    史跡内容
    所在地
    ●秋田県
     妙慶寺幸村の五女・御田姫と弟・幸信の墓所岩城町亀田
    ●宮城県
    当信寺幸村の三女・阿梅、次男・大八の墓所白石市白石本町
    白石・田村家墓地の幸村の墓幸村の六女・阿葡萄建立の幸村の墓白石市蔵本勝坂
    ●栃木県
    犬伏宿石田三成の密書を父子が密談佐野市犬伏新町
    ●群馬県
    天桂寺沼田藩主真田信吉の菩提寺沼田市東原新町
    正覚寺信之の正室・小松姫の墓所沼田市鍛冶町
    三光院信利寄進の石灯籠沼田市柳町
    沼田城昌幸攻略の城沼田市倉内
    岳山城跡岩櫃城と対立した上杉方の城中之条町五反田
    林昌寺矢沢頼綱開基の寺中之条町中之条
    横尾の水牢沼田真田藩の圧政の遺構中之条町横尾
    中之条町の天王石中之条町の町割りの記念石中之条町中之条
    鹿沢温泉真田氏の先祖伝説のある温泉嬬恋村
    顕徳寺武田勝頼を迎えるための居館を移築吾妻町
    岩櫃城幸隆が落城させた西上州の拠点吾妻町原
    名胡桃城小田原征伐の口実にされた城月夜野町
    茂左衛門地蔵沼田藩の圧政を直訴した茂左衛門を弔う
    尻高城跡昌幸が攻め落とす高山村尻高字小屋
    白井城跡幸隆が攻略した城子持村白井
    ●埼玉県
    勝願寺信之正室・小松殿と三男・信重の墓所鴻巣市本町
    ●東京都
    青山霊園幸貫の墓港区南青山
    広徳寺小野お通の墓所練馬区桜台
    曹渓寺信吉正室・松仙院の墓と信之の供養塔港区南麻布
    大安寺幸吉の菩提寺港区西麻布
    海福寺信親家の菩提寺目黒区下目黒
    松泉寺信勝家の菩提寺渋谷区恵比寿南
    瑞輪寺信勝家の菩提寺台東区谷中
    ●神奈川県
    盛徳寺幸道・幸民の墓所伊勢原市上糠屋
    ●長野県
    ◎松代開善寺信之が白鳥神社の別当寺にした寺院長野市松代町西条
    海津城(松代城)真田家十万石の居城長野市松代町松代殿町
    川中島古戦場
    (八幡原古戦場)
    信玄VS謙信の古戦場
    寒松山大林寺昌幸正室・山手殿長野市松代町松代石切
    皓月山大英寺信之正室・小松殿の菩提寺長野市松代町松代表柴町
    妻女山上杉謙信が第四回目の川中島戦に本陣を敷いた山長野市松代町清野
    真田山大鋒寺信之が葬られている寺院長野市松代町柴
    真田山長国寺松代真田藩主代々の菩提寺長野市松代町松代田町
    真田邸真田藩第九代藩主幸教の母の隠居所長野市松代町松代殿町
    西楽寺信重の御霊屋長野市松代町西条
    文武学校真田藩士の鍛錬場長野市松代町松代殿町
    松代町の鐘楼旧松代藩の鐘楼長野市松代町松代
    松代・白鳥神社信之建立の真田家の守護神社長野市松代町西条狼煙山
    ◎上田安楽寺信之が寺領を寄進上田市別所温泉
    上田城跡昌幸が築城し徳川を二度撃退した城上田市上田
    上田原古戦場跡信玄が村上軍に大敗した古戦場上田市大字上田原
    米山城跡戸石崩れ(落城)の際の村上吉清の城上田市上野字伊勢山
    幸村の隠し湯「石湯」真田氏も利用した古湯上田市別所温泉
    真田幸村の馬上像上田城時代の若武者像上田駅駅前広場
    松翁山芳泉寺小松殿の宝篋印塔など上田市常磐城
    信濃国分寺跡昌幸徳川方使者との会見場所上田市大字国分
    天照山大輪寺昌幸再建の寺上田市中央北
    戸石城跡幸隆、信玄が奪還した城上田市上野字伊勢山
    矢沢城跡神川左岸を守る城上田市殿上字矢沢
    ◎真田町安智羅宮幸隆、もしくは幸村といわれる神将坐像真田町角間
    角間温泉真田氏隠し湯の一つ真田町角間
    角間渓谷真田忍者修業の場真田町角間
    真田山長国寺幸隆の妻と昌幸の墓所真田町真田
    真田氏記念公園真田氏発祥の地真田町本原字下原
    真田氏館跡信綱の居館真田町長字真田
    大柏山信綱寺中世真田氏ゆかりの地に建つ寺
    日向畑遺跡幸隆以前の真田氏墳墓とされる遺跡真田町角間
    松尾古城跡真田本城の背後を守る城真田町長字横沢
    山家神社延喜式に名をみせる真田氏の産土神真田町真田
    ◎丸子町尾野山城上田合戦での千曲川南岸の拠点丸子町生田
    丸子城跡徳川敗退の真田の属城丸子町腰越
    ●福井県安穏寺昌輝の子孫の菩提寺福井市つくも
    真田幸村の首塚(真田地蔵)幸村を討取った西尾家菩提寺の首塚福井市立郷土歴史博物館
    ●静岡県
    花沢城昌幸武勲の城焼津市高崎城山
    ●愛知県
    長篠古戦場信綱、昌輝兄弟が戦死鳳来町長篠
    ●京都府
    木幡伏見城真田氏が築城に加わった秀吉の居城伏見区桃山町
    大珠院幸村と正室・竹林院の墓所右京区竜安寺内
    ●大阪府円珠庵(鎌八幡)幸村戦勝祈願の神木大阪市天王寺区空清町
    大阪城豊臣家の居城、大坂の陣の舞台大阪市東区大阪城
    宰相山公園幸村の銅像大阪市天王寺区玉造本町
    真田丸出城跡(堰月城跡)幸村が築いた出城大阪市天王寺区餌差町
    三光神社・幸村の抜け穴幸村が大坂城との連絡に造ったという洞穴大阪市天王寺区造本町
    志紀長吉神社幸村戦勝祈願の神社大阪市平野区長吉長原
    全興時地雷で吹き飛んだ地蔵の首が安置された寺大阪市平野区平野東
    樋之尻口地蔵幸村が地雷を仕掛けた地蔵堂大阪市平野区平野東
    安居神社「真田幸村戦死跡」の碑大阪市天王寺区逢坂上之町
    ●和歌山県
    高野山・蓮華定院昌幸・幸村父子が配流後身を寄せた寺院高野町
    善名称院・真田庵昌幸・幸村父子九度山配流の居館九度山町
    ●岡山県
    由加山蓮台寺幸村の頌徳碑倉敷市児島由加
    ●香川県
    石田・真田家墓地幸村四男・之親の子孫の墓寒川町石田
    ●佐賀県
    名護屋城の真田陣跡朝鮮の役での真田父子陣所跡鎮西町名護屋
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