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[非表示]創建[編集]
寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、実際は百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定される[要出典]。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。
- 白猪氏氏寺
中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。
建築物[編集]
- 本堂 - 江戸時代、宝暦3年(1753年)上棟の棟札があり、竣工は安永5年(1776年)である。
- 南大門 - 寛政8年(1796年)の上棟、寛政12年(1800年)頃の竣工。入母屋造の楼門(2階建て門)である。
- 四脚門(西門、国の重要文化財) - 桃山時代、慶長6年(1601年)豊臣秀頼によって再興された。切妻造、本瓦葺。
他に、阿弥陀二十五菩薩堂、大師堂、護摩堂などが建つ(いずれも江戸時代)。[3]
文化財[編集]
国宝[編集]
乾漆千手観音坐像(十一面千手千眼観世音菩薩像) - 1952年11月国宝指定
- 本堂宮殿内に安置される当寺の本尊像。毎月18日以外は開扉されない秘仏である。8世紀半ばごろの作で、記録によれば鎌倉期には六角宝殿内に安置されていたという。八稜形框上に宝瓶を据えた五重蓮華座上に坐し、像高(髻頂部まで)は130.2cm(頂上仏面を含めた像高は144.2cm)。胸前で合掌する2本の手を中心に1039本の大小の脇手が円形に展開している。
- 合掌する本手を含む本体は大陸から伝来した脱活乾漆法(麻布を漆で貼り重ねて像の形をつくる)で造られ、これに木心乾漆の大小手(脇手)を組み合わせた構造で、X線透視による内部調査では天平前期乾漆像の特徴を示している。
- 脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で、造像当初にはすべての脇手に墨描で眼が表されていたと考えられており、現在も一部の墨描が残存している。合掌手を除く大小の脇手は、像の背後に立てた2本の支柱に打ち付けられており本体とは離れているが、正面から見ると像本体から千手が生えているように見える。
- 日本に現存する千手観音像としては最古のものの一つ。脇手の一部、頭上面の一部、持物のすべて、台座蓮弁の大部分などを後補とする。彫像の千手観音像は40本(合掌手2本を合わせて42本)の手で「千手」を代表させるものが多いが、本像のように実際に千本の手を表現する千手観音像は少ない(本像のほかには唐招提寺金堂像などがある)。図像的には、宝鉢手を表さず、大手を通例の42本ではなく40本に表す点が珍しい。
- 『千手千眼陀羅尼経』が将来された天平年間には、天平12年8月に藤原広嗣の乱が起こり、同年9月15日には勅願により国ごとの観世音像の造像と観世音経の写経が行われている。この際の観音像の像容は本像と一致することから、葛井寺像は藤原広嗣の乱鎮圧を祈念して造立されたものであるとする説もある。[4]
重要文化財[編集]
- 四脚門(西門)
その他の文化財[編集]
- 木造聖観音菩薩立像 - 平安時代。本尊の右に安置。
- 木造地蔵菩薩立像 - 平安時代。本尊の左に安置。
- 石灯籠 - 鎌倉時代。本堂裏の庭園にある。
- 金銅宝塔(舎利塔) - 鎌倉時代