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木曽義仲の出会い史跡。甲信越

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 甲信越 
都道府県 地 域 名 称 代表人物 内  容
山梨県塩山・大月市源次郎岳源次郎家臣の岩竹源次郎が自刀した
長野県 長野市若里伝・市原古戦場義仲市原がどこかは定かではない
長野市箱清水箱清水の井戸義高義高の乳母が箱清水出身
長野市東之門町善光寺樋口行時大僧正に教えを受けた
寛慶寺栗田範覚栗田入道範覚が開基、栗田寺と号した
伊勢神社義仲義仲祈願所の明神社が合併
長野市安茂里清水冠者屋敷跡義高旭山の中腹にあり、木曽殿屋敷とも
長野市川中島小松原伊勢社義仲義仲が創建
長野市川中島今井今井兼平墓兼平今井兼平の墓。落合五郎の子・兼善が建立?
切勝寺兼平聖観音像は兼平の守り本尊
縁切橋兼平兼平が妻と別れたとも義仲が巴と分かれたとも
兼平引水兼平今井兼平引水伝説有り
駒止石兼平兼平の馬が石の前で動かなくなった
馬洗い池兼平横田河原の戦の時馬を洗った
長野市篠ノ井横田横田河原古戦場義仲兼平の家臣が兼平の遺髪を埋めたという伝説もある
横田城義仲義仲が城氏との戦で陣をひいた
可毛羽神社義仲源氏軍の兵火にあった
義仲の墓義仲義仲子孫と伝わる家の墓地にある
長野市篠ノ井塩崎康楽寺覚明大夫房覚明が開祖
西仏の墓覚明大夫房覚明の墓
長野市篠ノ井長谷寺義仲軍木曽勢の兵火で炎上
長野市篠ノ井證城根々井行親横田河原の戦で使用
長野市御厨戸部勝鬨八幡社義仲義仲軍が勝鬨をあげた。富部三郎家俊館とも
今井山讃楽寺今井兼之兼平の次男が創建
富部城跡富部家俊富部氏の居城跡
亀伝山常泉寺富部家俊富部氏の菩提寺。家俊の供養塔がある
長野市松代証蓮寺海野氏海野小太郎善幸の子浄賀が開基
長野市景山義仲手植えの杉義仲
長野市岩野千手観音義仲義仲が安置した
長野市尼厳(?)山城址義仲白米城伝説
長野市葛尾城白米伝説
戸隠戸隠流忍法仁科大助義仲の家臣仁科大助が大成
戸隠溝口城(福平城)今井一族今井一族が築城
戸隠戸隠神社巴岩宝光社近くの岩に仏号を矢じりで刻んだ
戸隠柵村今井八幡神社兼平兼平創建の社
戸隠中ノ尾の上旗塚兼平家臣兼平の配下が住んでいた
鬼無里一夜山木曽殿城力寿丸義仲、または力寿丸の砦
鬼無里城ノ越木曽殿城の出城?力寿丸目印に金の鶏を埋め、白躑躅を植えた
鬼無里木曽殿アブキ力寿丸義仲が兵を休めたとも力寿丸の隠れ家とも
義仲ふんどし掛けの松義仲なんじゃそりゃ
鬼無里松巌寺五輪塔義仲義仲の親族の五輪塔
鬼無里土倉土倉文珠堂・薬師堂力寿丸義仲の文珠菩薩像を堂に移し父の菩提を弔った。 境内に義仲を祀る薬師堂(朝□神社、旭社さま)有り
鬼無里小佐出牧がはば(巻のはば)力寿丸等義仲の兜についていた黄金の守本尊がここで落ちたので 奉持していた残党はこの地に住み着いた
鬼無里曲尾山麓安堵峯力寿丸等守本尊安置後この地でようやく安堵した
鬼無里岩下駒落し河川に馬蹄石があった
鬼無里長峰長峰城兼平今井兼平の城があった(息子の熊丸とも)
兼平の双盤兼平長峰城に双盤という大きい鐘を残した
兼平の飲料水兼平長峰城の西の古井戸
鬼無里松原樋口の隠れ里兼光子孫樋口姓を名乗る子孫がいる
鬼無里冷沢落人伝説義仲残党木曽氏の落武者集落
鬼無里小川入り矢下横矢義仲等義仲と兼平が逃げる途中お堂に隠れた時、矢下から射られた矢が通った
鬼無里堂屋敷・五輪塔義仲残党江戸中期まで薬師堂があった場所
鬼無里山角観音堂兼平今井兼平の守り本尊
鬼無里竹田の児安様兼平の妻兼平の妻の安産祈願
鬼無里社軍神の墓社軍神義仲家臣の社軍神がここで没した
鬼無里白髭神社義仲義仲が戦勝祈願した
鬼無里源義重の墳墓義重義重の墓
鬼無里新井淡路様熊丸土地の富者淡路様が、兼平の子熊丸をもてなした
大岡村芦ノ尻御曹子様(木曽義仲神社)義仲従者11人と越中へ向かう途中ここで果てた
生坂村御曹子の社(木曽義仲神社)義仲 
小川村朝日居城跡義仲義仲が築いた
かくれまや(隠れ馬屋)力寿丸一時力寿丸主従が隠れ住んだ
飯山市瑞穂柏尾楯跡楯親忠親忠の本拠地
飯山市大聖寺兼平子孫兼平の子孫が創建
野沢温泉村平林矢当たり石兼平兼平が怪物めがけてうった矢の跡
矢垂兼平矢当たり石の地名
野沢温泉村市川谷馬蹄石矢田義清義清の馬のひずめ跡
野沢温泉村一ノ物見義仲義仲が城を構えた
木曽殿館義仲御巣鷹山にある義仲の城
義仲の厩義仲館近くにある義仲が馬を繋いだ岩窟
木島平村馬曲鞍掛の梨義仲義仲が鞍を掛けて休んだ
蜘蛛ヶ淵義仲家臣淵に落ちた家臣を大蜘蛛が助けた
木島平村平沢義仲従士の碑義仲家臣義仲の家臣が亡くなり、ここに葬った
豊田村天上山城実盛斎藤実盛屋敷
今井城兼平
豊田村上今井諏訪神社義仲祈願社として創建
普賢寺巴が家臣の小林氏と隠れる
飯綱町(牟礼)諏訪社義仲戦勝祈願した
寨城義仲養和年間に築いた城
信濃町戸草戸草城址義仲義仲が築いた
護国庵義仲戸草城址内にあった。義仲の位牌がある
清水義仲公会堂の庭にある。飲料水に使用
八幡社義仲義仲が勧請
信濃町富濃諏訪神社義仲義仲が勧進
馬塚義仲義仲の馬を埋めた
信濃町・長野市赤坂城址義仲新潟との県境。横田河原の合戦で関をおいた
信濃町諏訪ノ原諏訪神社義仲武運祈願のため建立
信濃町割ヶ岳城址義仲柴津為信を攻め落とした
須坂市井上井上氏居城跡井上氏井上氏の居城跡
須坂市野辺町?古白山社跡井上氏井上九郎によって焼失
若穂町綿内前山城・春日城跡義仲義仲の城
称名寺清貞義仲の子が開基
中野市高岡安源寺兼平兼平の居館跡
中野市鴨ヶ岳日野城跡高梨氏高梨氏の居城跡
高山村道本平木曽城義基母や従者15人と共に隠れ住んだ
ドウフン三保江の前義仲の妻三保江の前の塚
高山村中山田義仲供養塔義仲 
高山村奥山田関場義基義基を守るために設けた関所
豊野町板橋八幡社義仲社殿を修復、戦勝祈願した
木曽軍鎧かけの松義仲板橋八幡社にあり祈願の際鎧を掛けた
更埴市一重山義仲陣屋跡義仲義仲が旗を立てた
更埴市雨宮雨宮の渡義仲横田河原の戦の時渡河した
更埴市八幡武水別神社義仲楯親忠が戦勝祈願した
更埴市大雲寺義仲義仲が帰依した
更埴市高円寺義仲横田河原の戦の本陣にした
更埴市稲荷山荒町駒繋ぎ石(鞍掛の石)この石に馬を繋ぎ、休息した
更埴市稲荷山稲荷山温泉義仲が発見
更埴市篠山船繋石義賢義賢の五輪塔がある?
更埴市桑原ごぜ池巴が炊飯した
更埴市矢崎山義仲陣を敷いた
元八幡社義仲戦勝祈願した
麦稈落し義仲麦稈に火を付け平氏軍を破った
陣ガ窪義仲陣を敷いた
陣場平(木曽殿陣場)義仲陣を敷いた
御前が池(ごぜ池と同じ?)巴が沐浴・洗髪した
上田市諏訪形荒神神社兼平兼平の妻が巴と開基。兼平の墓がある
上田市平井寺平井寺温泉(きつねの湯)義仲義仲の隠し湯だった?
中原屋敷跡中原氏中原氏や義仲が住んだ
上田市中央願行寺海野行氏海野小太郎が建立
上田市房山浄楽寺滋野氏覚明の位牌有り
上田市小泉岩鼻親忠親忠がこの岩山に登り偵察
上田市別所温泉安楽寺義仲兵義仲軍の兵火を受けた
大湯「新・平家物語」で葵が訪れた。(ほんとは北条義政由来)
上田市塩田平巴・山吹五輪塔巴・山吹巴・山吹の墓
手塚太郎五輪塔手塚光盛手塚太郎光盛の墓
唐糸観音堂(手塚大城)唐糸手塚太郎の館跡。唐糸・万寿を祀る
応慈山光盛寺跡(蔵六庵)手塚光盛手塚太郎が開基。
馬の足跡の橋手塚光盛新町にあった。手塚太郎が武運を祈ったら、ひずめ跡がついた
元木の地蔵手塚光盛無量寺にあり、光盛の守本尊。弘法大師が彫ったらしい
馬場跡手塚氏 
塩野神社義仲義仲が祈願した
八木沢天満天神宮義仲元は甲山にあった。義仲の碑文が建つ。
上田市五加八幡大神縣社(五加八幡社)義仲戦勝祈願した
塩田館跡塩田高光塩田八郎高光居館跡
上田市生田中城館跡依田氏依田氏館跡と推定
上田市生田竹の花五輪塔飯沼(依田)氏義仲滅亡後に移り住んだ
丸子町御嶽堂依田城(丸子城・開戸城)跡義仲義仲の居城
岩屋堂(宝蔵寺)義仲義仲や巴が戦勝祈願
駒つなぎの木義仲岩屋堂の脇参道の大杉。今は枯れて無いらしい。
義仲馬大門義仲岩屋堂の脇参道の別名
義仲桜義仲宝蔵寺山門横にある
御嶽神社義仲義仲居館跡
愛宕神社(小太郎宮)幸氏義高武運の吉相として笠懸を行った
丸子町辰ノ口巴御前お歯黒の池巴が使用した
丸子町上丸子安良居神社義仲戦勝祈願した
丸子町中丸子長福禅寺義仲戦勝祈願した。義仲が建立したとも
石山の砦覚明覚明の碑が建つ
八幡社義仲戦勝祈願した
丸子町腰越蓮乗寺義仲戦勝祈願した。義仲が建立したとも
丸子町長瀬中城館依田行俊義仲に依田城を譲った依田実信の子行俊の城
丸子町砂原峠正海清水義高清水冠者の由来
高築地館跡依田氏依田城から移った
千曲市戸倉卍峠(万治峠)義仲願掛けの夢で見た卍の旗に導かれて平家に勝利した
東御市海善寺滋野神社滋野氏滋野氏の産土神
白赤のボケ義仲戦勝祈願として植えた
東御市和矢立城海野氏海野氏の詰め城
東部町海野宿海野氏海野氏の本拠地
白鳥神社海野氏海野氏の氏神
白鳥河原義仲義仲挙兵の地
東御市新張湯の丸木曽義仲の駒返し義仲猛吹雪にはばまれ駒を返した
義仲雨宿りしな義仲シナの木で雨宿りした?
立科町芦田冠者社義重ここで病死した。与惣塚から犬の飛脚が通う伝説がある
与惣塚兼連亀背であった今井兼平の子がここで病死
与惣殿原兼連与惣塚付近を与惣殿原と呼ぶ
立科町大字山部小諸城址(懐古園)小諸太郎小諸太郎光兼が築城
小諸市丁小諸城址(懐古園)小諸太郎小諸太郎光兼が築城
小諸市西原若宮八幡神社義高義高が元服
山鳥ススキ義高ススキは義高の血で染まった
小諸市諸弁天の清水義高清水冠者の名の由来とも
小諸市霧窪の池(元は古池地区)望月三郎大力の三郎が河童の皿の水をこぼしたため池が枯れ、現在の場所に移ってしまった
佐久市根々井正法寺行親行親の祈願寺
根井行親供養塔行親根井行親屋敷跡に立つ
佐久市今井今井城兼平兼平の城跡
小弥太の馬の足跡行親根井小弥太の馬が羽黒神社の屋根に穴をあけた
佐久市(望月町)葦が平義仲落ち延びた義仲がこの地に住んだ
佐久市(浅科村)宝泉寺矢島行忠行忠が創建
佐久穂町八千穂樋口樋口の地名兼光兼光がここを通った
南佐久郡佐久穂町穂積蟻城兼光兼光の城とも
佐久穂町大涯城義仲・義清矢田義清の居城。義仲が実盛に連れられ、最初に匿われた場所
山吹城址矢田義清義清の出城
佐久穂町館楯親忠館跡親忠楯六郎親忠の館跡
月見石親忠当年の豊・凶作の占いを親忠が伝えた
野馬除け親忠 
駒寄せ親忠 
余地宮浦神社親忠親忠が修復?
佐久町双子池付近穂無し葦義仲義仲が切った後、穂が出なくなった
佐久町海瀬十声寺親忠楯氏の菩提寺。江戸時代まではあった
信州新町玉泉寺義仲竹村兵部が持ち帰った旭観音や義仲ゆかりの白藤がある
中条村朝日居城跡義仲養和元年、義仲が築城
美麻村大塩大野国城力寿丸力寿丸を仁科盛遠がここで庇護
美麻村高地白石城手塚三郎兵衛三郎兵衛が住んだ
池田町広津殿御老原義重義重の隠居所
稲荷社塔義重義重が京都より観請
池田町日野木曽累代の墓義重等義重・義元・義国の墓がある
池田町藤代六孫王藤倉神社山吹等山吹の子・満義の子孫が建立
池田町白駒城樋口兼時兼時(行時)が住んだ
登波離橋(妬割落し)樋口行時行時の妾の米持藤・野きよが共に落ちて死んだ
長福寺米持藤藤姫の霊仏を本尊とする
麻績村北山木曽殿城義仲小見・合田の戦の砦といわれる
麻績村北山山吹堂山吹山吹の供養のために建てた
麻績村北山9211大山祇社義仲義仲の命で大山祇神を勧請
麻績村ガッタリ義仲義仲の馬がヒザを折った
ソリメ義仲義仲の馬を見送った
駒ヶ石義仲義仲の馬の馬蹄石
四阿屋山大権現義仲四阿屋山の観音像を守護神とした
法善寺義仲義仲が別当を命じた
別當寺義仲同上
一口坂義仲義仲の馬が一口笹を食べた
東遠見義仲物見所を置いた
西遠見義仲物見所を置いた
返り目義仲 
安曇野市穂高牧栗尾山満願寺(栗尾観音)義仲古文書に養和年間に山林を寄進とあり
奈川村乗鞍岳朝日権現社覚明覚明が社殿を創建し黄金の神像を奉安した
大町市八坂藤尾藤尾覚音寺仁科盛家仁科盛家が十一面観音を安置した
大町市盛蓮寺観音堂仁科氏仁科氏が建立
大町市森城址義重義重が阿倍貞高を攻めた
機織淵義重貞高の妻が機具を持ち入水。梅雨期に機織の音が聞こえる
五郎宮阿倍貞高貞高の霊を鎮めるために建てた
阿倍渡(あべっと)阿倍貞高森城から湖底逃げた貞高が上陸した場所
小谷村雪倉山比丘尼屋敷巴が鉱山を見つけ、銀を掘った
上・中・下巴巴が十二社を祀った地
小谷村南小谷木曽殿あぶき義仲義仲の隠れがだが、義経に攻められた。攻めた山を義経山という
四賀村大門洞光寺義仲義仲の兜石が有る
明科町金井沢大穴山泉福寺義重両親の菩提を弔うために建立。義仲開基とも
松本市猫塚義仲家臣義仲に従った武将の墓
諏訪神社義仲義仲の形見石がある
松本市今井今井神社(兼平明神)兼平兼平の形見石が埋められている
宝輪寺兼平今井兼平が開基
松本市国府町国府跡兼遠兼遠が権守だった
松本市筑摩筑摩神社小笠原氏小笠原氏の祖神。義仲らも信仰した
松本市蟻ヶ崎生安寺地蔵尊義高・巴義高の霊を鎮める?巴の清水丸城跡?(推定)
松本市清水槻井泉神社(清水丸館)義高・巴義高産湯の井戸で、清水冠者の由来?(推定)
松本市入山辺駒越神社義仲軍義仲軍が通過した
松本市入山辺殷富門院大輔歌碑殷富門院義仲を恋して詠んだとも(ホントかよ)
松本市里山辺白糸の湯(束間の湯)覚明この湯に浸かって漆による顔の腫れを引いた?
松本市里山辺桐原牧義仲ここから馬で出陣した
松本市中村兼平館兼平兼平の館跡
松本市和泉町長称寺義基山号を木曽義仲院といい、義基伝説有り
松本市宮渕勢高神社覚明覚明霊神の碑がある
落馬観音日影茶屋にあり、巴が愛馬を埋めた
松本市伊深井深城址岡田重義岡田氏の居城
岡田冠者親義の石祠岡田親義重義が親義の首を埋めた塚
松本市岡田下岡田岡田式内神社岡田重義重義が義仲名代で戦勝祈願した
慈眼山普門院岡田親義重義が開基
松本市惣社?惣社八幡宮(伊和神社?)岡田重義重義が義仲名代で戦勝祈願した
松本市原穴田観音岡田重義重義が創建
松本市元町七本松国府弁財天(元屋敷)義仲遺児義基が一時匿われた
中原屋敷跡兼遠中原屋敷跡
松本市島立栗林正行寺佐々木高綱巴に会った了智(高綱)が後に開山
了智上人の墓佐々木高綱 
松本市島立沙田神社兼遠兼遠が参詣
松本市野溝西松岳寺義高節折堂に参詣し、観音菩薩を安置
松本市波田若澤寺義仲兼平や巴と参拝
秋葉城址義仲若澤寺参詣途中に立ち寄る
松本市木曽道  
松本市芳川小屋村井城光盛手塚光盛の居城
山形村建部神社兼平兼平が寄進
朝日村西洗馬光輪寺薬師堂義仲義仲が兼平の名で戦勝祈願した
兼平嗽の清水義仲元薬師堂があったところにある
朝日村御道開渡御道開渡義仲義仲が茨を切り開いた
間登男の湯義仲義仲の的場の湯
朝日村御馬越御馬越え義仲義仲がこの峠を越えた。実盛の子が最期を遂げたとも
さかさ柳義仲箸に使った柳をさしたら芽がでた
義仲公園義仲長峰越えの際ここで休憩した。義仲公祠がある
朝日村御山里朝日居城跡義仲義仲が築城
朝日村松原城ノ越樋口子孫木曽殿城の出城で樋口一族が住んだ
朝日村古見巴足なおし様祈ったら足の怪我が治った。足無様とも
朝日村兼平うがいの泉兼平年少時にこの泉を飲んでいた
朝日村義仲清水義仲 
樋前の城址兼光樋口兼光居城
樋口の城墟兼光樋口兼光が築城し、子の兼重が住んだ
足無し様管長須根彦義仲を監視した平家の間者が凍傷で死に、村民が祠を建てた
塩尻市塩尻町大宮阿礼神社義仲くぼみの水でイボが治る
塩尻市上小曽部一ノ木戸馬蹄石義仲義仲の馬が滑ってつけた
塩尻市上小曽部義仲の宿り木義仲 
塩尻市みどり湖永福寺朝日観音堂義豊子孫の義豊が義仲追念のため開山
塩尻市小野小野神社義仲義仲が祈願・再建
小野の牧兼平兼平が馬を集めようとした
塩尻市霧遠山木曽殿城跡義仲朝日ヶ嶺城の支城とも
塩尻市芦の田鏡岩(鏡石)義仲姿を映して髪を洗ったとも落馬したとも
慈眼山観音堂兼平義仲等が休んだ
塩尻市洗馬太田の清水兼平兼平が義仲の馬を洗った
塩尻市上町古寺駒形観音(長福寺)義方子孫の義方が義仲の菩提を弔うために建立
塩尻市?中町富士浅間社義仲義仲が祀る
塩尻市宗賀 兼平等兼遠、兼平が住んでいた
床尾神社義仲義仲が戦勝祈願
太田の清水兼平兼平が義仲の馬を洗った
熊野社兼遠兼遠が参拝
塩尻市小曽部罠沢口義仲の馬の足跡義仲小曽部川の岩に穴があり、水は眼病に効く
塩尻市長瀬判官代の墓長瀬義員 
東漸寺長瀬義員義員が開祖
長瀬判官代の隠れ里長瀬義員 
塩尻市床尾床尾神社義仲義仲が祈願
塩尻市東山塩尻峠五百渡滝義仲義仲が参篭
塩尻市長興寺小枝裏山に小枝御前の墓
岡谷市川岸新倉観音堂義仲義仲手植えの神代桜がある
新倉毘沙門堂義仲義仲ゆかりの毘沙門天木造がある
堂平義仲毘沙門堂をおいた為についた地名
岡谷市本町照光寺兼平兼平を祀る
岡谷市今井神社(十五社神社境内)兼平兼平を祀る
下諏訪町霞ヶ城(手塚城)光盛手塚別当金刺光盛の居城
唐糸・万寿姫供養塔唐糸・万寿唐糸・万寿を祀る
駒王坂義仲桜ノ城跡にあり駒王丸の名に由来
木曾義仲の矢倉義仲伝説じゃないでしょ?
座禅石盛澄流鏑馬の前にここで座禅した
山吹城金刺氏金刺氏の城
梶原塚盛澄金刺盛澄が梶原景時の供養の為に建てた
楢川村朝日ヶ嶺麓の隠れ城義仲義仲の隠れ城
楢川村平沢馬蹄石義仲義仲が馬で跳んだ
楢川村桑崎馬蹄石義仲軍隊の要地として兵馬をおいた
楢川村萱ヶ平浄龍寺跡兼興兼行嫡男が草庵を結んだ
楢川村萱ヶ平ハンの木沢ごろう場兼行落合五郎兼行の館跡?
大欅安産祈願した
楢川村奈良井浄龍寺兼興萱ヶ平の草庵を移した
鎮神社木曽忠太木曽忠太を祀る
楢川村・木祖村鳥居峠・義仲の硯水義仲・覚明御嶽へ願書を奉納した時の硯の水
矢立石義仲・覚明硯水の脇にあった?
逆さ柳義仲硯水の脇にあった。義仲が逆さにさしたら根付いた
木祖村げんじろ義仲義仲の山城
隠籠ヶ原義仲家臣義仲の家来が隠れ住んだ
野中の隠し畑義仲家臣義仲の家来が隠れ住んだ
木祖村中山義仲の一鍬塚(一鍬畝)義仲鍬入れ式を行った
木曽町日義宮ノ越徳音寺義仲義仲らの墓
丸城義仲義仲が元服後移り住んだ
旗揚八幡宮義仲丸城の一角。義仲手植えの大欅がある
巴ヶ淵巴が泳いだ
御手洗の泉義仲巴橋の脇にあり、義仲が手を洗った
山吹山義仲義仲の物見櫓
南宮神社義仲木曽家の産土神
桃谷巴が館から桃の実を投げた
巴の礎石義仲勧請の森(若宮八幡宮)に有る
通の浮石↑と同じ??巴が木曽川に礫を投げた石。夜になると動く。
木曽町日義野上行親・親忠館跡行親・親忠根井行親・楯親忠の館跡
木曽町日義原野林昌寺兼遠仲原兼遠の菩提寺
原野八幡宮義仲義仲が戦勝祈願した
円光寺跡兼遠兼遠が出家して建立
みたまの森兼光樋口次郎兼光の屋敷跡(体育館付近)
木曽町日義屋敷の原兼平今井兼平館跡
木曽町日義木曽駒高原巴の松巴が馬のとも綱をかけた
岩華観音(渡沢観音)義仲義仲馬頭観音
狼退治の場義仲義仲が家来と夜中に狼退治をした
手塚光盛館跡光盛手塚光盛館跡
木曽町中畑権言滝義仲 
木曽町新開七笑(地名)義仲 
木曽福島町手習天神義仲義仲が手習いをした
興禅寺義仲義仲手植の桜や墓がある
御影堂北陸宮北陸宮が父の堂を建てた
義仲元服の松義仲元服記念に植えた
関山公園兼平 
中原兼遠屋敷跡兼遠駒王丸が隠れ育った場所
以仁王の墓以仁王モッコ山にある
西光寺手塚光盛光盛が建てた
長福寺木曽氏義仲らの菩提寺
荒神社覚明・兼遠覚明が白旗を立てた。城崎の荒神社を勧請したとも
御霊社跡義仲等義仲と四天王を祀る
駒王丸の隠し室義仲駒王丸を匿った場所
心光寺跡義仲等兼遠が義仲等の為の学問所とした
開田村西野お清くずれお清義仲の為に水を汲みに行く途中足をすべらせた
お清地蔵義仲お清の霊をなぐさめる為に建てた
城山義仲西野城跡にあり義仲が陣をしいた
駒かけ岩義仲馬の蹄と義仲の鎧の跡
安又川の水義仲この水で吹き出ものが直った
巴の泣き地蔵由来不明
開田高原松川あし山の駒のツメ跡義仲義仲の馬のツメ跡と鎧の跡
開田高原末川小野原丸山観音義仲家臣落武者が薬師寺を創建したのが始まり
開田高原義仲の馬の墓義仲 
王滝村八王子神社兼遠兼遠の霊を祭る
真弓峠義仲一族義仲敗退後この地を通って逃げた
御嶽山義仲義仲が幼少の頃登った
御嶽山賽の河原覚明山吹らの冥福のため積石した
三の池覚明覚明が立ち往生した
上松町沓掛観音義仲馬の為に金の観音像を作り社をたてまつった
木曽の桟義仲挙兵時に守りを固めた
台が峰義仲 
灰沢の馬の足跡義仲 
王屋敷以仁王以仁王が住んだ
高倉(地名)以仁王以仁王伝説
天皇坂以仁王以仁王に由来
高倉神社頼政源頼政が建てた
源頼政の墓頼政源頼政の墓らしい
大桑村須原定勝寺木曽親豊義仲を追福するために建てた
大桑村弓矢弓矢八幡巴・兼平巴・兼平の館跡
関山関所跡義仲義仲が関所をおいた
兼平山兼平弓矢八幡のある山
大桑村中西天長院義仲義仲が願書を出した
大桑村殿殿義仲家臣樋口や今井らの子孫が住んだ地
大桑村上村上村義仲家臣家臣らの子孫が住んだ地
大桑村兼平山兼平
南木曽町かぶと観音義甲社ともいい、巴が義仲のために建立
義仲の腰掛け石義仲かぶと観音にあった
振袖松(夜泣き松)巴が邪魔な松を放ったら逆さに根付いた
楯守神社楯氏 
南木曽岳義仲義仲の金時童子伝説
南木曽町三留野三留野家範義仲の子孫左京之亮家範館跡地
義基・義茂の墓義基・義茂楯氏の族人に伴われ、沼田で養われた
南木曽町恋野恋野と鯉(恋)岩義仲と巴が別れを惜しんだ場所
山口村馬篭法明寺跡(五輪様)宮菊義仲の妹・菊姫の墓
山口村ノゾキノゾキ(地名)義仲対岸の坂下神社に矢文を射た場所
辰野町矢彦神社義仲義仲が社殿を造営
辰野町荒神山荒神社兼平兼平が信仰
樋口の城跡(大石城)兼光兼光とその子孫の居城跡
樋口次郎兼光墓兼光樋口兼光の墓
辰野町小野村小西城跡木曽氏別名草間城。木曽氏居館
辰野町三里村瀬戸城跡義仲別名義仲一夜城
楡沢山の砦義仲義仲の砦跡
辰野町横川村田中社義仲駒王丸の産神でもと駿河にあった
瑞光寺(朝日堂)・義仲位牌義仲千尋淵から出現した義仲の守本尊を祀る
辰野町川島御堂平義仲 
城見義仲義仲が築城の場を定めるために来た
辰野町陣場ヶ原(陣場平)義仲家臣義仲家臣の砦跡
辰野町大沢堂平毘沙門の跡義仲義仲の兜の毘沙門天をこの地に置いた
辰野町小野牧義仲義仲の領地?
辰野町大峯山義仲のろし台があった
辰野町赤坂峠義仲夏城への食糧運びにこの峠を通った
辰野町香蓮寺樋口氏樋口家の菩提寺だった
伊那市与地合戦場義仲義仲と松島氏の戦い
下条村京野山吹姫の墓山吹山吹がここで死んだ
宮田村馬蹄石義仲義仲の馬がつけた
駒ヶ根・空木岳木曽殿越・義仲の力水義仲義仲が通った
飯田市大平千鶴・三郎兼好の墓千鶴・兼好千鶴と兼好の墓が小木曽家代々の墓にある
 巴の子双子の一人(もう一人は義秀)が住んだ
飯田市座光寺原宮崎館跡宮崎太郎宮崎太郎長康の居館
飯田市上川路開善寺義仲義仲の位牌がある
駒ヶ根・空木岳木曽殿越・義仲の力水義仲義仲が通った
天竜峡義仲乳母の碑義仲乳母千鶴のことらしい
新潟県上越市和田巴御前の墓岡原の五社神社の境内にあり虎御前の墓ともいわれる
上越市高田巴の墓高田城跡にあるが、うそくさい
上越市国府跡(居多神社)義仲越後進出後本拠地とした。
光源寺堀光政義仲の家臣光政が建立
妙高市関山姥堂義仲義仲と姥を祀る
関山神社義仲義仲が信仰
阿弥陀仏  
馬蹄石  
義仲馬洗清水義仲 
太刀割石  
妙高市高市西野谷新田石造宝篋印塔義仲の妻義仲の愛妾の墓
妙高市上平丸木曽清水義仲馬を休めて清水を飲んだ
越路町巴ヶ丘巴がこの地で没した
朝日寺巴が建立した
朝日山義仲家臣義仲の家臣がこの地を朝日と名付けた
朝日神社(剣権現)義仲家臣義仲の太刀を奉納
糸魚川市青海勝山城跡義仲義仲軍の進撃を阻止するために、地元の豪族が建てた
糸魚川市歌駒返り義仲馬が進まなくなり、ここでひき返した。義仲馬洗清水?
糸魚川市今井城址兼平兼平が屯した。近くの八幡宮に鏑矢と鐵扇を奉納した
糸魚川市兼平城跡兼平雪源寺の裏山にある
新井市平丸木曾清水義仲義仲が発見した
経塚平義仲兵を休ませた
北魚沼郡広神町十三塚義仲を弔った
おはじょう屋敷跡巴が住んだ
西蒲原郡巻町竹野町待て橋菖蒲の前頼政の愛妾がここで頼政を待ち続けた
東蒲原郡阿賀町東山中山以仁王終焉の地以仁王墓らしいものはあるが不明
佐渡市相川地区信連長谷部信連が落ち延びた

木曽義仲出会い関東の史跡

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 関 東 
都道府県 地 域 名 称 代表人物 内  容
群馬県草津温泉町地蔵堂義仲義仲の守本尊
武具脱の池義仲家臣義仲の残党が武具を脱ぎすてた
殺生河原楯氏楯氏一族が沼に身を投げた
弦が池義仲家臣義仲の残党が武具を脱ぎすてた
細野平望月氏細野三友之助が蟄居した
六合村世立集落義仲義仲がこの地を拠点に世に出た
六合村花敷温泉落人伝説義仲家臣家臣の落人伝説
六合村野反湖天狗平義仲妾?細野三友之助が義仲の子を妊娠中の人物を匿う
六合村暮坂峠木曽殿の濠義仲不明
六合村いよどの屋敷義仲伊予守義仲の屋敷
老神温泉朝日ホテル義経義経が義仲のことを考えた
赤城赤城神社義仲の子横野村の木曽家の先祖が立てた
中之条町沢渡温泉義仲義仲が入った?
下仁田町栗山兼平の墓兼平今井の子孫が住む
渋川市北橘箱田木曽三社神社義仲家臣義仲の残党が義仲の霊を祀った
木曽三柱神社義仲家臣義仲の遺品を埋めた
箱田城址義仲家臣義仲家臣が義基を連れて住んだ
富士塚義仲家臣義仲の子を世話した女中ふじの墓
七つ塚義仲子孫義仲の子とその家族七人の墓
渋川市北橘下箱田兼平の墓兼平下箱田の今井家墓地にある
渋川市北橘南室楯六郎親忠供養塔楯親忠親忠の供養塔
藤岡市道中郷葵八幡葵御前を祀ったもの
牛伏塚葵を乗せた牛を埋めた
藤岡市一行寺本堂の聖観音は巴の守本尊
多野郡吉井町多胡の庄館跡義賢義賢館跡。義仲出生地とも
片品村高倉宮の墓以仁王以仁王を葬った
御座入部落以仁王以仁王が立ち寄った
腰掛石以仁王以仁王が腰掛けた
栃木県安蘇郡田沼町清水城址義高現在、曹洞宗興聖寺が建つ
御所様の墓義高と妻義高と妻の五輪塔
岩崎八幡宮義高・義持岩崎を名乗った義高と子の義持の居城
牛ヶ城跡義高義高の居城
宇都宮市下小池町高お神社頼政源頼政の創建
佐野市如法寺義高義高が義仲の霊を弔った
泉応院地蔵尊義仲義仲の守り本尊?
安蘇郡義高の墓義高新合村に義高の墓があった
大田原市木曽峠木曽峰義高政子の命で義高の守仏を安置した
那須郡黒羽町円応寺跡義高の妻義高の妻の墓がある
益子町上大羽字大六天義高の墓義高政子の命で義高の守仏を安置した
大六天の森義高義高が自害した。田村屋敷があった?
田村大夫の墓田村文右ェ門義高や大姫をもてなした
定光寺阿弥陀堂大姫義高の菩提を弔うために建立
益子町尼ヶ阪大姫大姫がここで尼となった
鏡ヶ井戸大姫大姫が姿をうつした
涙川大姫涙に濡れた顔を洗った
茨城県龍ヶ崎市龍ヶ崎頼政神社頼政or仲綱頼政の首を埋めたとも子の仲綱の墓とも
稲敷市浮島信太の浮島義憲信太三郎先生義広が隠れ住んだ
埼玉県都幾川村萩日吉神社の萩の山王様義綱義仲の霊を鎮めるため家臣が奉納した流鏑馬
弓立山義仲遺児義仲の遺児と遺臣が居を構えた
都幾川義仲妾?何だっけ?
狭山市影隠地蔵義高影に隠れて追っ手を逃れた
清水八幡神社義高木曽義高の霊をまつる
児太郎稲荷児太郎海野児太郎が義高を弔うために建てた
唐紙終焉の地唐紙義高の乳母が入間川で投身した
武蔵嵐山町大蔵館跡義賢源義賢居館
源義賢五輪塔義賢源義賢墓
鎌形八幡神社義仲義仲産湯の清水有り
伝木曽殿館跡義仲伝木曽殿館跡
班渓寺山吹山吹が建てた
東松山市石橋青鳥野頼朝頼朝が布陣
熊谷市妻沼聖天山本殿実盛実盛が当地の庄司として聖天を祀った
熊谷市妻沼歓喜院本坊斎藤六斎藤六実長が建立
熊谷市妻沼利根川先陣跡実盛子孫実永・実季が戦死
熊谷市弥藤吾氷川神社実盛後裔実盛後裔が建立
熊谷市弥藤吾斎藤塚斎藤氏実盛子息が父の遺骸を埋めたとも、孫の住居跡とも
熊谷市西野斉藤実盛館跡・実盛塚実盛実盛の館跡
熊谷市八ツ口長昌寺の椎の木実盛三本の椎の木を植えた
比企郡滑川町大字福田義賢浅間社義賢家臣が義賢を祀った
比企郡菅谷村大蔵義賢館跡義賢 
上里町帯刀義賢層塔(篠山)義賢義賢の五輪塔がある
東京都港区今井城址兼平兼平の城と伝わる
港区麻布狸穴兼平軍の駐屯地兼平兼平軍が一時駐屯し、近くに兼平町があった
世田谷区源義賢の墓義賢義賢の墓
台東区橋場実盛の石仏(保元寺)実盛 
文京区湯島実盛首洗の井戸実盛取り壊された
実盛塚実盛昔はここにあった
心城院(湯島聖天)実盛境内の池は元実盛屋敷の池の一部
実盛坂実盛実盛塚の伝説があった
中野区哲学堂公園巴の居住跡
町田市箭幹八幡宮(木曽八幡宮)義賢木曽仲三兼任を迎え、義平と合戦した
千葉県本埜村小林巴塚ここに晩年を過ごしたらしい
印西市結縁寺頼政塚頼政家来が頼政の首を埋めた
名馬塚頼政家臣頼政の家臣の乗った馬がここで倒れた
入定塚佐藤民部娘頼政の塚を訪ねて入定した
頼政松頼政現存しない
ごしょ柵頼政弟頼政の弟が兄の霊を弔った
神奈川県横浜市泉区横根の感念井戸井戸の水を化粧の水として使った
横浜市保土ヶ谷区今井地区兼平兼平の所領だった
鎌倉市大船常楽寺義高木曽義高の墓
鎌倉市扇ヶ谷岩船地蔵堂大姫大姫の守り本尊
鎌倉市釈迦堂ヶ谷唐糸やぐら唐糸唐糸が閉じ込められていた
鎌倉市比企ヶ谷竹御所の墓竹の御所妙本寺に袖塚がある
鎌倉市二階堂二階堂大姫大姫の供養のために建立した草庵が地名の由来
逗子市久木岩殿寺大姫大姫が参拝
横須賀市岩戸満願寺巴を地蔵菩薩に祀る
巴の墓個人宅の裏山にある
巴の硯水円通寺跡にある
横須賀市佐原巴の墓巴の墓
横須賀市大矢部和田九十三騎の墓清雲寺にあり巴が建てた
横須賀市森崎巴御前の塚巴の塚があったらしい
横須賀市秋谷正行院巴や和田義盛を祀る。巴の遺髪を埋めた
伊勢原市日向日向薬師頼朝・大姫大姫の平癒祈願に参詣
伊勢原市石田石田次郎為久の五輪塔石田為久円光院の館址にある墓
小田原市柏山善栄寺巴が創建
小田原市白狐(口碑)賊に襲われた時、白狐が身代わりとなった。
箱根箱根神社(箱根権現)覚明「箱根山縁起」を執筆

木曽義仲の出会い。四国、中国地方

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加古川市腰掛松(影向松)行家常住寺にあり、十郎行家が室山合戦時に腰掛けた

 中 国 
都道府県 地 域 名 称 代表人物 内  容
岡山県岡山市南区妹尾妹尾明神妹尾兼康兼康を祀る
妹尾兼康供養塔妹尾兼康啓運山盛隆寺境内にある
州浜城址妹尾兼康兼康が築城
上屋敷(厳島神社)妹尾兼康兼康の居館
兼康霊墓妹尾兼康兼康の墓
岡山市北区津島本町妙善寺(福輪寺)妹尾兼康この辺で源氏軍と戦った
岡山市北区津島福居福寺(福輪寺)畷妹尾兼康この辺で源氏軍と戦った
岡山市北区首部笹ヶ瀬古戦場(篠の迫)妹尾兼康この辺で源氏軍と戦った
岡山市北区首部妹尾兼康首塚妹尾兼康義仲が兼康を討った。実盛の塚とも
岡山市北区吉備津?轟橋妹尾兼康ここで最期を遂げた
岡山市北区吉備津道勝寺跡陶山道勝兼康の家臣道勝が建立
妹尾兼康の墓兼康・道勝道勝が兼康の屍を埋めたのが始まり
妹尾兼康墳堂妹尾兼康普賢院にある
兼康首かけの松妹尾兼康吉備津駅の近くにあったらしい
岡山市中区湯迫関白屋敷跡基房藤原基房と桜姫の屋敷
湯迫温泉基房関白の湯といい、基房が発見した
岡山市草ケ部草壁妹尾兼康倉光三郎を夜討する計画を練った
岡山市西川原裳佐の渡妹尾兼康ここを渡って福輪寺阡へ向かった
備前市三石(兵庫県赤穂郡上郡町)船坂義仲義仲が通った
東栗倉村中谷落人伝説義仲残党義仲子孫の落人の里
一宮町千騎谷兵士義仲・妹尾の戦の戦士者の太刀音が、毎月十六日に聞こえる
総社市井尻野兼康神社(井神社)妹尾兼康兼康を祀る
湛井堰・十二ヶ郷用水妹尾兼康兼康が開設した
総社市上林太郎荒神(緑山)妹尾兼康兼康終焉の地。兼康を祀る
鷺の森・首掛けの松妹尾兼康兼康の首を掛けた
緑山妹尾兼康兼康が逃げこんだ
地蔵堂妹尾兼康兼康を祀る
和気町藤野(和気政庁)倉光成澄の塚倉光成澄義仲の家臣・倉光成澄の塚が建つ
藤野寺跡(実成寺)成澄・兼康妹尾兼康が倉光三郎を討った
倉敷市松島両児神社(万寿庄)義仲軍木曽軍の戦場となったらしい
倉敷市玉島柏島水島古戦場義仲軍平家の陣屋だったらしい
倉敷市玉島乙島源氏の城跡(常照院境内)義仲軍源氏軍の陣屋だったとか
倉敷市清水家(久保屋)  
勝田郡勝北町中村新善光寺兼平子孫今井兼重・兼忠が建立
宮内村道勝寺妹尾兼康兼康の寺と伝わる
浅口市寄島町実盛実盛(地名)信実屋島で負傷した実盛の子信実が身を潜めた
斎藤実盛の墓実盛実盛の五輪塔
笠岡市白石島弘法山開龍寺源平両軍水島合戦戦没者の菩提を弔うために建立した慈眼寺が前身
広島県尾道市向島西村川尻王太子一之宮神社義重家臣1196年に建立
尾道市向島西村川尻覚明神社覚明義仲、義重、覚明を祀る。付近を覚明島という
地蔵院(浄土寺)覚明覚明が創建
三十六苗荒神義重家臣三十六人衆を祀る
亀森八幡宮(西八幡宮)覚明この地を去る時、邸宅跡に八幡宮を創建
木曽明神義重主従義重・覚明を祀る。この付近を木曽谷という
西八幡宮燈屋義重家臣家臣が順に燈屋番となり義重を守った
尾道市向東町義重住居(木曽原)義重義重が住んだ
彦の上・三石義重源義重の墓
山口県柳井町平郡島平栗丸この地に住んだ義仲の子・平栗丸(平群丸)からとった地名

 四 国 
都道府県 地 域 名 称 代表人物 内  容
香川県三野町地蔵院義重・覚明義重と覚明が建てた
 矢止松頼政頼政が遠矢を行った時に当たった
御門・的場頼政頼政の住居跡
愛媛県伊予郡中山村山吹神社山吹山吹を祀る
山吹五輪の塔山吹山吹の墓
山吹従者の碑お筆山吹の亡骸を葬った忠臣の碑
伊予郡中山村佐礼谷犬寄坂山吹産後のヤナを犬が食った
伊予郡双海町曳坂山吹山吹終焉の地
楯築山吹従者曳坂の上。楯を突き立て宿を取った
喜多郡長浜町豊茂朝日部落音若山吹の娘が育った
西条市福武新田常福寺兼遠中原兼遠と白姫の墓
大三島大山積神社国宝館義仲・巴義仲・巴の長刀、薙刀、鎧があるらしい
高知県鏡村小浜城址今井兼光兼平の弟・尉之頭が戦った
下田町竹島部落義仲義仲の火牛の計を使って戦に敗北し、以来、牛を飼うと祟るという

平安時代年表

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年表[編集]

天皇在位表[編集]

  1. 781年(天応元年) - 806年(大同元年)…… 桓武天皇
  2. 806年(大同元年) - 809年(大同4年)…… 平城天皇
  3. 809年(大同4年) - 823年(弘仁14年)…… 嵯峨天皇
  4. 823年(弘仁14年) - 833年(天長10年)…… 淳和天皇
  5. 833年(天長10年) - 850年(嘉祥3年)…… 仁明天皇
  6. 850年(嘉祥3年) - 858年(天安2年)…… 文徳天皇
  7. 858年(天安2年) - 876年(貞観18年)…… 清和天皇
  8. 876年(貞観18年) - 884年(元慶8年)…… 陽成天皇
  9. 884年(元慶8年) - 887年(仁和3年)…… 光孝天皇
  10. 887年(仁和3年) - 897年(寛平9年)…… 宇多天皇
  11. 897年(寛平9年) - 930年(延長8年)…… 醍醐天皇
  12. 930年(延長8年) - 946年(天慶9年)…… 朱雀天皇
  13. 946年(天慶9年) - 967年(康保4年)…… 村上天皇
  14. 967年(康保4年) - 969年(安和2年)…… 冷泉天皇
  15. 969年(安和2年) - 984年(永観2年)…… 円融天皇
  16. 984年(永観2年) - 986年(寛和2年)…… 花山天皇
  17. 986年(寛和2年) - 1011年(寛弘8年)…… 一条天皇
  18. 1011年(寛弘8年) - 1016年(長和5年)…… 三条天皇
  19. 1016年(長和5年) - 1036年(長元9年)…… 後一条天皇
  20. 1036年(長元9年) - 1045年(寛徳2年)…… 後朱雀天皇
  21. 1045年(寛徳2年) - 1068年(治暦4年)…… 後冷泉天皇
  22. 1068年(治暦4年) - 1072年(延久4年)…… 後三条天皇
  23. 1072年(延久4年) - 1086年(応徳3年)…… 白河天皇
  24. 1086年(応徳3年) - 1107年(嘉承2年)…… 堀河天皇
  25. 1107年(嘉承2年) - 1123年(保安4年)…… 鳥羽天皇
  26. 1123年(保安4年) - 1141年(永治元年)…… 崇徳天皇
  27. 1141年(永治元年) - 1155年(久寿2年)…… 近衛天皇
  28. 1155年(久寿2年) - 1158年(保元3年)…… 後白河天皇
  29. 1158年(保元3年) - 1165年(永万元年)…… 二条天皇
  30. 1165年(永万元年) - 1168年(仁安3年)…… 六条天皇
  31. 1168年(仁安3年) - 1180年(治承4年)…… 高倉天皇
  32. 1180年(治承4年) - 1185年(文治元年)…… 安徳天皇
  33. 1183年(寿永2年) - 1198年(建久9年)…… 後鳥羽天皇

安土桃山時代年表

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安土桃山時代

  • 1573(天正1)年:織田信長、足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡。
  • 1573(天正1)年:信長が浅井・朝倉氏を滅ぼす。
  • 1574(天正2)年:織田信長が伊勢長島の一向一揆を鎮圧。
  • 1575(天正3)年:織田信長と徳川家康の連合軍が三河の長篠で武田勝頼の軍と戦い、鉄砲隊を活躍させて勝利をおさめる(長篠の戦い)。
  • 1576(天正4)年:織田信長が安土城築城を始める。石川本願寺を攻める。
  • 1576(天正4)年:上杉謙信が加賀・能登を後略する。
  • 1577(天正5)年:織田信長が安土城下を楽市とする。
  • 1577(天正5)年:羽柴秀吉が中国地方征伐に出発。
  • 1578年:ロシアのシベリア進出が始まる。
  • 1579年イギリス人が始めてインドに到達。
  • 1580(天正8)年:石川本願寺が織田信長に降伏する。
  • 1580(天正8)年:イギリス船が平戸に来る。
  • 1580年:スペイン王フェリペ2世がポルトガルを併合。
  • 1581年:オランダスペインから独立
  • 1582(天正10)年:大友・有馬・大村の三大名が少年使節をローマ法王のもとに送る。
  • 1582(天正10)年:羽柴秀吉が高松城を水攻めにする。
  • 1582(天正10)年:天目山の戦いで信長・家康が武田勝頼をやぶる。
  • 1582(天正10)年:織田信長が本能寺で明智光秀に襲われて自殺(本能寺の変)。
  • 1582(天正10)年:羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀をやぶる。清洲会議で信長の跡継ぎを秀信に決める。
  • 1582(天正10)年:羽柴秀吉が山城国の検地を行う(太閤検地の初め)。
  • 1582年:教皇が暦法を改正(グレゴリオ暦)。
  • 1582年:イエズス会宣教師のマテオ・リッチが中国の広東に上陸、布教を始める。
  • 1583(天正11)年:羽柴秀吉が近江賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。
  • 1583(天正11)年:羽柴秀吉が大阪城の築城を開始。
  • 1583年:ヌルハチが満州で挙兵(清朝の始まり)。
  • 1583年:ガリレオが振り子の等時性を発見。
  • 1584(天正12)年:島津氏の勢いが北九州にまで及ぶようになる。
  • 1584(天正12)年:徳川家康が小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉を破る。
  • 1584(天正12)年:イスパニア商船が平戸に来る。
  • 1584(天正12)年:羽柴秀吉が長宗我部元親を討つ(四国平定)。
  • 1584年:イギリス人の北アメリカ移住が始まる。
  • 1585(天正13)年:秀吉が関白に任ぜられ姓を藤原に改める。
  • 1586(天正14)年:秀吉が太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜る。
  • 1586(天正14)年:後陽成天皇即位。
  • 1587(天正15)年:豊臣秀吉による九州遠征が行われ、島津義久が降伏して九州が平定される。
  • 1587(天正15)年:豊臣秀吉がバテレン追放令を出す。
  • 1587(天正15)年:聚楽第が完成する。
  • 1587(天正15)年:豊臣秀吉が北野で大茶会を催す。
  • 1588(天正16)年:豊臣秀吉が長崎の教会領を没収する。
  • 1588(天正16)年:豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招き諸大名に忠誠を誓わせる。
  • 1588(天正16)年:豊臣秀吉が刀狩り令を出す。
  • 1588(天正16)年:天正大判・小判が作られる。
  • 1588年:イギリススペインの無敵艦隊をやぶる。
  • 1589年:フランスのブルボン王朝が始まる。
  • 1590(天正18)年:豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、奥州を平定してほぼ全国の統一が完成。
  • 1590(天正18)年:徳川家康が秀吉に国替えを命じられ江戸城に入る。
  • 1592(文禄1)年:豊臣秀吉が朝鮮出兵を行う(文禄の役:~93)。
  • 1592(文禄1)年:豊臣秀吉がフィリピンに来貢を要求。
  • 1592(文禄1)年:朱印船の制を定める。
  • 1592(文禄1)年:伏見城の完成。
  • 1594(文禄3)年:豊臣秀吉が諸大名に命じ、全国で検地を実施する。
  • 1595年:オランダ人がジャワ島に到達。
  • 1596(慶長1)年:京畿で大地震が起こる。
  • 1596(慶長1)年:スペイン船サン・フェリーペ号が土佐に漂着。
  • 1596(慶長1)年:キリスト教徒26人が長崎で処刑される。
  • 1597(慶長2)年:豊臣秀吉が再び朝鮮出兵を行う(慶長の役:~98)。
  • 1597年:アイルランドがイングランドに対して反乱を起こす。
  • 1598(慶長3)年:豊臣秀吉死去。
  • 1598年:フランスで新旧教徒の和約が結ばれる(ナントの勅令)。
  • 1600(慶長5)年:オランダ船リーフデ号が豊後に漂着。
  • 1600(慶長5)年:関が原の戦いが起こり徳川家康(東軍)が石田三成(西軍)をやぶる。
  • 1600年:イギリスの東インド会社ができる。
  • 1601(慶長6)年:佐渡金山を直轄地にする。慶長大判・小判ができる。
  • 1602(慶長7)年:徳川家康が京都に東本願寺を創建し、本願寺が東西並立となる。
  • 1602年:オランダが東インド会社を作る。
  • 1603(慶長8)年:徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。
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江戸時代年表

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江戸時代年表

江戸時代の年表を少しご紹介致します。何かのご参考になれば幸いです。ちなみに古伊万里とは関係ありません。
西暦年号将軍政治・経済・社会
1600慶長05年 関ヶ原の戦い
1603慶長08年家康家康、征夷大将軍(江戸幕府創立)
1604慶長09年糸割符制はじまる
1607慶長12年秀忠角倉了以、富士川の水路を開く
1609慶長14年オランダの平戸貿易始まる
1610慶長15年家康、メキシコに通商を求め田中勝介を派遣
1613慶長18年伊達正宗、支倉常長を欧州に派遣。 禁教令、全国におよぶ
1614慶長19年大坂冬の陣
1615元和01年大坂夏の陣。 豊臣氏滅亡
1616元和02年欧州船の寄港地を平戸・長崎に制限
1624寛永01年家光イスパニア船の来航禁止
1629寛永06年紫衣事件。 長崎で絵踏始まるという
1633寛永10年奉書船以外の渡航を禁ず(鎖国令Ⅰ)
1635寛永12年海外渡航禁止、帰国禁止(鎖国令Ⅲ)。 武家諸法度を改正(参勤交代を制度化)
1637寛永14年島原の乱。 乱後寺請制度始まる
1639寛永16年ポルトガル人の来航禁止(鎖国令Ⅴ)(鎖国の完成)
1641寛永18年平戸のオランダ商館を長崎出島に移す
1643寛永20年田畑永代売買を禁ず
1644正保01年『オランダ風説書』始まるという
1649慶安02年慶安の御触書
1651慶安04年家綱由井正雪の乱(慶安の変)
1657明暦03年江戸の大火
1663寛文03年殉死を禁ず
1665寛文05年大名の人質を廃す
1673延宝01年分地制限令を発す
1685貞享02年綱吉初めて生類憐みの令を発す(~1709)
1688元禄01年貿易制限。 長崎に唐人屋敷建設
1694元禄07年江戸に十組問屋成立。このころ大坂に二十四組問屋成立
1695元禄08年荻原重秀の建議により金銀貨幣を改鋳
1702元禄15年赤穂浪士、吉良義央を討つ
1709宝永06年家宣家宣、新井白石を登用(正徳の治)
1710宝永07年閑院宮家を創立
1711正徳01年白石、朝鮮使節の待遇を簡素化
1715正徳05年家継長崎貿易制度令(正徳新令)
1716享保01年吉宗徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1718享保03年江戸町火消制度を整備
1721享保06年人口調査開始。 評定所に目安箱を置く
1722享保07年上げ米の制を定める
1773享保08年足高の制を定める
1732享保17年享保の大飢饉
1742寛保02年公事方御定書編修
1758宝暦08年家重宝暦事件
1767明和04年家治田沼意次御用人となる
1772安永01年田沼意次老中となる
1782天明02年天明の大飢饉
1787天明07年家斉天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1789寛政01年棄損令を出し、旗本・御家人の負債を免ず
1790寛政02年人足寄場を作る。 寛政異学の禁
1798寛政10年近藤重蔵ら、蝦夷地探検
1800寛政12年伊能忠敬、蝦夷地を測量
1808文化05年間宮林蔵ら樺太を探検
1825文政08年異国船打払令を出す
1828文政11年シーボルト事件
1833天保04年天保の大飢饉
1837天保08年家慶大塩平八郎の乱。 家斉、大御所となる
1841天保12年天保の改革
1842天保13年異国船打払令を改め、薪水給与令を出す
1843天保14年人返しの法。 上知(地)令の失敗で水野忠邦失脚
1844弘化01年オランダ王、開国を勧告
1850嘉永03年佐賀藩、反射炉を築造
1853嘉永06年ペリー浦賀に来航、プゥチャーチン長崎に来航
1854安政01年家定日米和親条約。 日英・日露和親条約
1856安政03年ハリス、下田に着任
1858安政05年家茂井伊直弼、大老となる。 日米修好通商条約。安政の大獄
1860万延01年新見正興ら渡米。 桜田門外の変
1862文久02年坂下門外の変。 生麦事件。 慶喜・慶永ら幕政改革
1863文久03年下関事件。 薩英戦争
1864元治01年池田屋事件。 禁門の変。 第一回長州征伐開始。高杉晋作ら挙兵
1865慶応01年幕府、第二回長州征伐を令す。
1866慶応02年薩長同盟なる。
1867慶応03年慶喜兵庫開港勅許。 京坂一帯に“ええじゃないか”が起こる。 大政奉還上表。

何でも役に立つ辞典

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豊臣秀吉年表

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足軽から関白まで登りつめた苦労人
豊臣秀吉とよとみ ひでよし
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誕生1537年3月17日(天文6年2月6日)
生誕地尾張国 中村
木下弥右衛門
なか(大政所)
幼名日吉
木下藤吉郎 羽柴秀吉 藤原秀吉 豊臣秀吉など
官名従五位下、筑前守、左近衛少将、従四位下、参議、従三位、権大納言、正二位、内大臣、従一位、関白、従一位、太政大臣、太閤、贈正一位など
通称猿、筑前、太閤殿下など
近親など正室:ねね(北政所・高台院
側室:松の丸、淀殿(茶々)、など多数
姉:とも(日秀)
弟:豊臣秀長
妹:旭姫(佐治日向守正室・徳川家康正室)
子:捨丸(早世)、拾(豊臣秀頼
養子:羽柴秀勝(信長の四男)、豊臣秀次(姉の子)、羽柴(結城)秀康(徳川家康の次男)、豊臣秀勝(姉の子)、豪姫前田利家の四女)など
ゆかりの地 美濃国 墨俣城
 近江国 長浜城
 播磨国 姫路城
 山城国 山崎城
 摂津国 大坂城
 山城国 聚楽第
 山城国 淀城(古城)
 山城国 伏見城(木幡山)
 山城国 北野天満宮
 山城国 醍醐寺三宝院
略歴1537年 (1歳)
木下弥右衛門の子として生まれる。

●信長への随身
1554年頃 (18歳)
様々な職を転々としたあと、尾張国織田信長に仕える。

頭角をあらわし、組頭、足軽大将と次々に出世。

1561年 (25歳)
ねね(北政所・高台院)と結婚。

●美濃攻略
1566年 (30歳)
墨俣城を短期間で築城し、美濃攻めの足がかりを作る。

1567年 (31歳)
安藤守就氏家ト全稲葉一鉄の西美濃三人衆の誘降に成功。

美濃国斎藤龍興攻め(稲葉山城攻め)で活躍。

美濃国竹中半兵衛を軍師に迎える。

1568年 (32歳)
信長の上洛戦に従軍。

1569年 (33歳)
但馬国此隅山城主、山名祐豊を攻め降し、但馬国を平定。

●北近江・越前攻め
1570年 (34歳)
越前国征伐に参陣するが、近江国浅井長政の裏切りにあい退却戦の殿軍をつとめる。(金ヶ崎の退き口

姉川の戦に参陣。

その後、小谷城への抑えとして築城された横山城に入り、対浅井氏の最前線を任せられる。

この頃、羽柴姓を名乗る。

●長浜城主
1573年 (37歳)
一乗谷攻めに従軍。

小谷城の戦での浅井長政攻めで貢献。

その功により、浅井氏の旧領(近江国3郡=伊香郡、坂田郡、浅井郡)12万石と小谷城を与えられる。

第二次伊勢長島攻めに参陣。

1574年
但馬国の山名祐豊、有子山城を築城し、毛利氏に寝返る

1575年 (39歳)
琵琶湖畔の今浜に新城を築いて移り、地名を長浜に。(長浜城

1577年 (41歳)
北陸方面軍の柴田勝家の応援を命じられ赴くが、勝家と意見が合わず独断で引き上げて、信長の怒りをかう。

信長に許され、信貴山城の戦に参陣。

●中国方面司令官
織田家の中国方面司令官を任される。

播磨国黒田官兵衛を配下に入れ、その居城姫路城に入城。

毛利方と対峙。

1578年 (42歳)
播磨国、上月城の尼子勝久の救援要請にこたえられず、見殺しに。(上月城の戦)

1579年 (43歳)
別所長治の籠る三木城兵糧攻めを行う。

1580年 (44歳)
三木城別所長治を自害させ、播磨国を平定。

黒田官兵衛から姫路城を譲り受け居城に。

但馬国の山名祐豊を攻め、但馬国を平定。

備前国宇喜多直家を織田家に臣従させる。

1581年 (45歳)
吉川経家の籠る、因幡国鳥取城兵糧攻めを行う。

淡路国の岩屋城、由良城を攻略。淡路国を平定。

●信長の死
1582年 (46歳)
清水宗治の籠る備中高松城の水攻めの最中、本能寺の変を知り、主君信長の仇明智光秀を討つことを決意、敵に信長死すの情報を得られる前に毛利方の使僧安国寺恵瓊と和睦交渉を成功させ、京都へ向かう。(中国大返し

摂津国山城国の国境の山崎の戦で光秀を敗走させる。
この軍功により、織田家での発言力を高め、主導権を握る。

山城国山崎城を居城に。

●勝家との争い
信長の後継を決定する、重臣会議(清洲会議)で、筆頭家老柴田勝家らは信長の三男、信孝を推したが、秀吉は本能寺の変で信長とともに死去した嫡男織田信忠の子、三法師(織田秀信)が妥当として対立。結局発言権の強い秀吉の案が通る。

1583年 (47歳)
秀吉専横を許せない柴田勝家との戦(賤ヶ岳の戦)では、子飼いの福島正則ら七本槍の活躍もあり勝利。
その際、尾張時代からの親友、前田利家が秀吉方に寝返り、勝家攻めの先鋒をつとめる。

●家康との争い
1584年 (48歳)
小牧・長久手の戦では徳川家康織田信雄と対峙するが、決着がつかず和睦。

家康の二男於義丸を養子に迎え、羽柴秀康と命名。

これにより、実質的な天下人となる。

●関白と全国統一
1585年 (49歳)
摂津国の石山本願寺跡に大坂城を築城し、ここを居城とする。

菊亭晴季の斡旋により、人臣の最高位である関白となる。

この頃、各地で検地(のちに太閤検地と呼ばれる)を始める。

紀伊国の根来衆・雑賀衆を攻め服従させる。(太田城水攻め)

四国攻め長宗我部元親を服従させる。

越中国佐々成政を攻め服従させる。

1586年 (50歳)
太政大臣となり、朝廷から豊臣姓を与えられる。

越後国上杉景勝を臣下に。

1587年 (51歳)
九州攻めで島津氏を服従させる。

京都に築城した聚楽第に移り、ここで政務を行うように。

北野大茶会を催す。

1588年 (52歳)
聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ。

海賊禁止令を出す。

刀狩令を出す。

1589年 (53歳)
側室の茶々(淀殿)が、嫡男、(捨丸)を出産。

茶々(淀殿)と鶴丸のために淀古城を修築し与える。

1590年 (54歳)
22万人の大軍で相模国小田原城攻めを行い、北条氏政を自害させ、当主北条氏直を高野山へ追放。

このとき小田原に駆けつけた陸奥国の伊達政宗を配下に組み込む。

奥州仕置を行い、全国を統一。

●斜陽
1591年 (55歳)
嫡男、鶴丸(捨丸)が、幼くして病死。(3歳)

弟で参謀の豊臣秀長が病死。

千利休を切腹させる。

全国統一を成し遂げたあとの目標は、中国の日本に隷属させること。そのため国内統治は甥で養子の豊臣秀次に関白を譲って任せ、自身は太閤に。

太閤としての政務のために、山城国に伏見城(指月山)を築城。

●朝鮮出兵
1592年~1597年 (56歳~61歳)
二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役慶長の役)も、朝鮮および明の反撃にあい不首尾。

●後継者変更
1593年 (57歳)
側室の淀君が、ふたり目の子、拾(おひろい=豊臣秀頼)を生む。

1595年 (59歳)
甥の元関白、豊臣秀次を切腹させる。(秀次事件

1596年 (60歳)
文禄の大地震で伏見城(指月山)が崩壊。

近くの木幡山に、新たに伏見城(木幡山)を築城。

1598年 (62歳)
醍醐寺三宝院で花見を開催。

病に伏し、跡継ぎの豊臣秀頼をくれぐれも頼むと家康や利家に言い残しながら、伏見城にて死没。

辞世は「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
死没1598年9月18日(慶長3年8月18日) (享年62歳)
レクイエム苦労に明け暮れた前半生、出世を重ね天下人に駆け上り黄金時代を築いた中期、強引な朝鮮戦争や千利休や関白豊臣秀次への切腹命令など暗い話題の多い後半生と、忙しい人生であった。

初めて一城を任された長浜の「長」は、信長の「長」からとって名づけたものであり、秀吉の如才なさを物語っている。

徳川家康年表

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徳川260年の礎を作った戦国の覇者
徳川家康とくがわ いえやす
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誕生1543年1月31日(天文11年12月26日)
生誕地三河国岡崎
松平広忠
於大の方水野忠政の娘)
幼名竹千代
元服名松平二郎三郎元信
松平蔵人元康・松平蔵人家康
官名三河守・左京大夫、侍従、中将、参議、中納言、大納言、内大臣(内府)、右大臣、太政大臣
幕職征夷大将軍、大御所
通称三河殿、内府、大御所、東照大権現(神号)など
近親など正妻:築山御前(今川義元姪・信康母)・旭姫(豊臣秀吉妹)
側室:於万の方(秀康母)、西郷の局(秀忠母)、陰山殿(頼宣・頼房母)など
子:松平信康結城(羽柴)秀康徳川秀忠松平忠吉松平忠輝・徳川義直・徳川頼宣・徳川頼房など
ゆかりの地 三河国 岡崎城
 遠江国 浜松城
 山城国 伏見城
 摂津国 大坂城
 武蔵国 江戸城
 山城国 二条城
 駿河国 駿府城
略歴1542年 (1歳)
三河国岡崎城主、松平広忠の長男として生まれる。

●人質生活
1547年頃 (6歳)~
多感な時期を尾張国の織田家や駿河国今川義元の人質として過ごす。

1549年 (8歳)
父、松平広忠の死により、駿府に居ながら松平家当主に。

1558年 (17歳)
初陣。(寺部攻め)

●三河への帰還と信長との同盟
1560年 (19歳)
今川義元の上洛戦では、先鋒として岡崎衆を率い大高城への兵糧入れに成功するなど活躍。

今川義元桶狭間の戦織田信長に討たれたのをきっかけに、故郷の岡崎城に入城。

その後も尾張国の織田家と対立。

1562年 (21歳)
伯父、水野信元の斡旋により織田信長と和睦、清洲同盟を成立させる。
これにより駿河国の今川家とは敵対関係になる。

1566年 (25歳)
この頃までに三河国一向一揆などの敵対勢力を平定。

松平から徳川に改名。

●遠江獲得
1568年 (27歳)
甲斐国武田信玄と同盟し、今川家を攻め遠江国の大部分を獲得。

1569年 (28歳)
掛川城今川氏真を攻め駿河国に追う。(掛川城の戦

武田信玄から一方的に同盟を破棄され、遠江国を攻められたことから武田家と敵対関係に。

1570年 (29歳)
武田への防衛強化のため、遠江国の引馬城(浜松城)に居城を移す。

織田信長に従い、越前国朝倉義景攻めに向かうが浅井長政の裏切りにあい退却。(金ヶ崎の退き口

姉川の戦では、織田信長の危機を救うなどの功をたてる。

●大敗と大勝
1572年 (31歳)
長年の強敵甲斐国武田信玄上洛戦途上、三方ヶ原の戦で大敗。

1573年 (32歳)
武田信玄の死により、危機を回避。

1574年 (33歳)
武田勝頼に、遠江国の要衝、高天神城を奪われる。(高天神城の戦(第一次)

1575年 (34歳)
武田勝頼に、三河国北部(奥三河)の長篠城を攻められるが、信長の協力のもと長篠の戦で破る。

遠江国諏訪原城を攻略。

遠江国二俣城を攻略。

1576年
遠江国犬居城を攻略。

●嫡男殺害
1579年 (38歳)
正室の築山御前と嫡男の松平信康甲斐国武田と内通しているとのことから、このふたりの処刑を信長から命令され、正室築山御前を護送途中に暗殺させ、松平信康を切腹させる。(信康事件

●遠江回復と駿河獲得
1581年 (40歳)
武田勝頼に奪われていた遠江国高天神城を攻め、奪回。

1582年 (41歳)
織田信長に従い武田勝頼攻め(天目山の戦)に参陣。
駿河国へ侵攻し蘆田信蕃の田中城を落とし、武田家家臣、穴山梅雪の誘降に成功し、武田氏滅亡後は、武田家の旧領駿河国を加増される。

●信長の死
穴山梅雪を伴い安土城織田信長に表敬訪問。

本能寺の変で信長が討ち死に。
少人数で和泉国堺を観光中だったが、茶屋清延の協力を受け、伊賀国経由で三河国へ無事帰国。

●甲斐・信濃の併呑
この後、天正壬午の乱北条氏直と争ったあと和睦。
これにより武田氏旧領の甲斐国信濃国に進出し、その大部分を所領に。

●秀吉との争い
1584年 (43歳)
信長二男織田信雄の要請を受け、羽柴(豊臣)秀吉小牧・長久手の戦を起こすも決着せず和睦。
次男、於義丸(結城秀康(羽柴秀康))を秀吉の養子に送り込む。

その後、羽柴(豊臣)秀吉からの再三の上洛命令を拒否。

1585年 (44歳)
羽柴(豊臣)秀吉が関白となる。

1586年 (45歳)
豊臣秀吉の妹、旭姫と再婚。

豊臣秀吉が、実母の大政所を家康の岡崎城に送り込む。
この秀吉の実質的な人質策により、大坂城に伺候し豊臣秀吉の臣下に。

●関東
1590年 (49歳)
小田原城攻めで関東の北条氏を滅ぼしたあと、秀吉からの関東約255万石への移封命令に従い、武蔵国江戸城を居城とする。

その後の豊臣政権では、五大老の筆頭として活躍。

●天下人
1598年 (57歳)
豊臣秀吉死没。

1599年 (58歳)
秀吉の遺命に背き、豊臣家の譜代大名らとの婚姻関係を次々と結ぶ。
これについて、前田利家石田三成らから糾弾を受けたことから対立。

敵対していた前田利家が病没。

武断派七将による、石田三成襲撃未遂事件が発生。この後石田三成は失脚。

伏見城へ入城し政務を行う。

秀吉の遺命に背き、伏見城から大坂城西の丸に移り政務を行う。

前田利長らによる、家康暗殺未遂事件。

加賀国の前田攻めを計画するが、前田利長の母、芳春院(まつ)が人質として江戸に下ることで解決。(これにより前田家は徳川家の配下に)

この後、各地の大名に対する加増などを断行し、多数派工作を露骨化させる。

●関ヶ原へ
1600年 (59歳)
上杉景勝の謀反を口実に、諸将を率いて会津攻めに向かう。

大坂において、反家康派である石田三成小西行長らが毛利輝元を総大将に担ぎ、旗揚げ。

家臣の鳥居元忠の守る伏見城が西軍に攻められ落城。

小山会議で、大坂へ引き返すことを決定。

関ヶ原の戦で西軍に勝利、天下人になる。

1603年 (62歳)
武蔵国江戸に幕府を開き、伏見城において征夷大将軍の宣旨を受ける。

●大御所
1605年 (64歳)
徳川秀忠征夷大将軍職を譲り、大御所となる。

1607年 (66歳)
江戸城から、駿河国駿府城に移る。

1610年 (67歳)
渡海朱印状を角倉了以らに与える。

1611年 (70歳)
二条城豊臣秀頼と会見。

1612年 (71歳)
岡本大八事件が起こり、大八を処刑。

キリスト教禁止令を出す。

●豊臣滅亡作戦
1614年 (73歳)
金地院崇伝の草案による方広寺鐘銘事件

大坂冬の陣

1615年 (74歳)
豊臣氏(豊臣秀頼)を、大坂夏の陣で攻め、滅ぼす。

一国一城令を出す。

1616年 (75歳)
死没。
死没1616年5月22日(元和2年4月17日) (享年75歳)
レクイエム徳川家を中心とした武家による260年の幕藩体制と、戦の幟に記してきた「厭離穢土・欣求浄土」(戦のない平和な世の中)を実現させた。

織田信長年表

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2014年ブログ訪問者10万人目標

天下布武を目標に突き進んだ天才武将
織田信長おだ のぶなが
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誕生1534年6月23日(天文3年5月12日)
生誕地尾張国 那古野城
織田信秀
土田氏
幼名吉法師
元服名織田三郎信長
官名上総介(自称)・右近衛大将(右府)など
近親など正室:濃姫(帰蝶)斎藤道三娘)
側室:生駒吉乃(生駒八右衛門の娘)、お鍋の方、坂氏、土方氏など
兄:織田信広
弟:織田信行織田信包織田有楽斎など
妹;お市の方など
子:織田信忠織田信雄織田信孝、織田秀勝、徳姫徳川信康正室)など
ゆかりの地 尾張国 那古野城(後の名古屋城
 尾張国 清洲城
 尾張国 小牧山城
 美濃国 岐阜城(先の稲葉山城)
 近江国 安土城
 山城国 本能寺(現在の本能寺とは場所が違います)
略歴1534年 (1歳)
尾張国那古野の小領主、織田信秀の二男として生まれる。

少年時代は大うつけ(大馬鹿者)という評判だった。

●那古野城
1539年 (6歳)
那古野城(後の名古屋城)を与えられる。

1546年 (13歳)
元服し、織田三郎信長と名乗る。

1548年 (15歳)
美濃国斎藤道三の娘、濃姫(帰蝶)と政略結婚。

●家督相続
1551年 (18歳)
父、信秀の死により、家督を相続する。

1552年 (19歳)
今川氏に寝返った、鳴海城主、山口教継(佐馬助)を攻める。
(赤塚の戦)

1553年 (20歳)
傅役の平手政秀が、信長を諫めて自害。

斎藤道三と、尾張国聖徳寺で会見。

●尾張平定
1555年 (22歳)
尾張国下四郡の守護代で、主筋の織田信友を攻め追放し、清洲城を手中にし居城に。

1556年 (23歳)
岳父斎藤道三が、長良川の戦で自害。

信長を倒し、弟の織田信行を擁立しようとした林通勝林美作(通具)、柴田勝家らに勝利。(稲生の戦

1557年 (24歳)
お家騒動の根源であった、弟の織田信行を殺害。

1558年 (25歳)
浮野の戦で、上四郡の守護代、織田信賢に大勝。

1559年 (26歳)
上洛し足利義輝に拝謁。

岩倉城の戦で織田信賢を攻め追放し、尾張国を統一。

●今川に勝利
1560年 (27歳)
桶狭間の戦今川義元を討ちとる。

1562年 (29歳)
今川義元の先鋒をつとめた、三河国松平元康(徳川家康)と清洲同盟を結成。

●美濃攻略
1563年 (30歳)
美濃国攻略のために、清洲城から小牧山城に居城を移す。

1566年 (33歳)
美濃国攻略の拠点として、墨俣城木下藤吉郎(豊臣秀吉)に築城させる。

1567年 (34歳)
この頃、近江国浅井長政と同盟。

妹のお市の方浅井長政の正妻に送り込む。

斎藤龍興を攻め、念願だった美濃国を手中に。(稲葉山城攻め
井ノ口を岐阜と改名、稲葉山城を岐阜城と改名し、居城に。

滝川一益に命じ、伊勢国北部攻略を開始。

●上洛
1568年 (35歳)
伊勢国神戸具盛を降伏させ、その際三男の織田信孝を養子に送り込む。(北伊勢を平定)

越前国朝倉義景の元家臣、明智光秀の仲介により、足利義昭を奉じて上洛を果たす。(信長の上洛戦

畿内を支配していた三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)を四国へ追い、畿内を支配下に。

三好三人衆と対立していた、大和国松永久秀を配下に。

足利義昭を15代室町将軍につける。

1569年 (36歳)
本國寺の変

二条御所を建設し、将軍足利義昭の御所に。

伊勢国北畠具教を攻め和睦。その際次男の織田信雄を養子に送り込み、伊勢国を平定。(大河内城の戦

●四面楚歌
1570年 (37歳)
将軍足利義昭を、殿中御掟で諫めたことから対立。

上洛命令に従わない越前国朝倉義景攻めに向かうが、義弟である近江国浅井長政の裏切りにより京都へ逃げ帰る。
金ヶ崎の退き口
その際、羽柴(豊臣)秀吉が殿軍(しんがり)を買ってでて成功。

岐阜に戻り軍備を整え、再び越前国朝倉義景近江国浅井長政と北近江の姉川を挟んで戦い勝利(姉川の戦)。

野田・福島の戦

●本願寺との対立
将軍足利義昭の求めに応じた本願寺の顕如と対立。(石山合戦の勃発)

宇佐山の戦

本願寺、比叡山、浅井、朝倉と、周囲を敵に囲まれたことから、足利義昭に斡旋を強要し和睦に成功。岐阜へ戻る。
志賀の陣

1571年 (38歳)
伊勢国長島の一向一揆を攻めるが攻略できず。(第一次伊勢長島攻め

浅井、朝倉軍を匿ったことを理由に、比叡山焼き討ちを行う。

●信玄の脅威
1572年 (39歳)
武田信玄上洛戦を開始。

三方ヶ原の戦で、武田信玄徳川家康軍を破り、尾張国の危機が近づく。

1573年 (40歳)
武田信玄の病死により、危機を回避。

●形勢逆転
将軍足利義昭河内国に追放。室町幕府滅亡。

越前国を攻め、朝倉義景を自害させ、越前国を支配下に。

小谷城の戦で、浅井長政を自害させ近江国を支配下に。
長政に嫁いでいた妹のお市の方と、その娘茶々(淀殿)、初、於江与は落ち延びる。

越前国に起こった一向一揆を、柴田勝家に攻めさせ攻略。

1573年 (40歳)
再び伊勢国長島の一向一揆を攻めるが攻略できず。(第二次伊勢長島攻め

1574年 (41歳)
東大寺秘蔵の蘭奢待(銘香木)の切取りを奏請し、許される。

第三次伊勢長島攻めに成功し、伊勢国を完全に平定。

1575年 (42歳)
長篠の戦甲斐国武田勝頼に大勝。

越前国で起こった一向一揆を攻略。

嫡男織田信忠に家督を譲り、尾張国美濃国と岐阜城を与える。

●安土城
1576年 (43歳)
近江国で、安土城築城を開始し、居城とする。

天王寺砦の戦で、本願寺勢に勝利。

摂津国の木津川河口で、本願寺に兵糧を運ぶ毛利輝元方の村上武吉率いる水軍と戦い敗戦。(第一次木津川の戦

1577年 (44歳)
第一次雑賀攻めに成功。

反抗した大和国松永久秀を、織田信忠に攻めさせ自害させる。(信貴山城の戦

●毛利氏との対立
羽柴(豊臣)秀吉を中国方面の総大将に任じる。

1578年 (45歳)
家臣、荒木村重の謀反にあう。

毛利方の村上武吉率いる水軍に、九鬼嘉隆に作らせた巨大な鉄装甲船6隻で勝利。本願寺の兵糧ルートを絶つ。(第二次木津川の戦

1579年 (46歳)
荒木村重方の有岡城を落とし、村重の一族・家臣を処刑。

丹波国丹後国を平定。

徳川家康の正室築山御前と嫡男松平信康に対し、武田に内通した嫌疑により処刑を命ずる。(信康事件

1580年 (47歳)
朝廷の斡旋を受けて、本願寺の顕如と和睦し、畿内の一向一揆を平定。
(石山合戦の終結)

重臣、佐久間信盛と子の佐久間信栄を追放。

1581年 (48歳)
京都で馬揃えを挙行。

淡路国を平定。

伊賀国を平定。(第二次天正伊賀の乱

●武田氏殲滅
1582年 (49歳)
甲斐国へ侵攻し、武田勝頼を攻め自害させる。(天目山の戦

加賀国一向一揆を鎮圧。

武田攻めの功に報いるため、徳川家康を安土へ招き接待。

中国への出陣途上、京都本能寺で明智光秀の謀反にあい自害。(本能寺の変

この後、山崎の戦で信長の仇を討った羽柴(豊臣)秀吉が織田家での主導権を握り、天下統一事業を引き継ぐ。
死没1582年6月21日(天正10年6月2日) (享年49歳)
レクイエム「天下布武」を合言葉に、戦のない世の中を実現するために、弊害のある旧体制を否定し、徹底的な破壊を行った。

そのような怜悧で残酷な性格の一方、有能な人材を発掘する確かな目を持っていた。
例えば足軽の子であった豊臣秀吉や、他家に仕えていた明智光秀荒木村重など能力のある人材を積極的に重用するなど、譜代の家臣にこだわらなかった。当時では類まれな人事を行っていた。

また、早くから兵農分離を進めて一年中出兵ができるようにしたり、鉄砲による新戦略を考案するなど、戦に関する先見性にも長けていた。

明智光秀の年表

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有職故事に明るかった、信長を倒した男
明智光秀あけち みつひで
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誕生不明(1528年と推定)
生誕地不明(美濃国説が有力)
明智光隆
妻木載煕の娘(煕子)
幼名 
明智十兵衛光秀
官名惟任日向守
通称などきんか頭(信長より)
近親など子:明智光慶、玉(細川ガラシャ細川忠興正妻)、津田信澄の正妻など
従妹:濃姫(斎藤道三の娘、織田信長正室)など
娘婿:細川忠興津田信澄明智秀満など
ゆかりの地 近江国 坂本城
 丹波国 亀山城(亀岡城)
 丹波国 福智山城(福知山城)
 丹波国 愛宕神社
 山城国 本能寺(現在の本能寺とは違います)
略歴1528年 (1歳)
美濃国斎藤道三家臣で明知城主、明智光隆の子として生まれる。
(異説あり)

●浪人
1556年 (29歳)
斎藤道三と争い始めた斎藤義龍明知城を攻められ、一家は離散、浪人となる。

その後仕官先を探して諸国を放浪、その途上、鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人細川藤孝(幽斎)とも知り合う。

●朝倉への随身
最終的には越前国朝倉義景に仕える。

1565年 (38歳)
松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が13代将軍義輝を暗殺。(永禄の変)

義輝の弟覚慶(足利義昭)の身も危ないことから、細川藤孝(幽斎)覚慶(足利義昭)をかくまい、将軍家復興のため朝倉義景を頼ったことから光秀と再会。

1568年 (41歳)
朝倉義景には上洛の意思がないことから、尾張国織田信長を頼ることを覚慶(足利義昭)に提案、信長に会い上洛の承諾を得る。

●信長への随身
光秀も朝倉義景を見限り、織田信長に仕える。有職故事に明るいため信長の頼りとするところとなる。

信長に担がれて上洛した足利義昭が15代将軍の座に就く。
(信長の上洛戦)

信長が京都を離れる際は、村井貞勝らとともに京都に残り政諸務を行う。

本國寺の変では足利義昭を守りきる。

1570年 (43歳)
傀儡将軍に過ぎないことを知った足利義昭が、信長打倒を決意。

浅井氏攻略のための構想を織田信長に提案。(姉川の戦となる)
戦後はこの功により、京都警備を任せられる。

野田・福島の戦

志賀の陣

1571年 (44歳)
織田信長に従い比叡山焼き討ちを実行。

●出世頭
1572年 (45歳)
近江国志賀郡5万石を与えらる。
織田家家臣の中では新参でありながらも、一番の出世頭であった。

琵琶湖岸に坂本城を築城し、居城に。

1573年 (46歳)
越前国攻めで功をたてる。

●丹波方面司令官
1577年 (50歳)
信貴山城の戦に参陣。

丹波方面の攻略を命じられる。

1578年
丹波国亀山城を築城し、二つ目の居城に。

1579年 (52歳)
丹波国、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟を攻め落城させる。

丹後国守護で弓削城主の一色義定を攻め降伏させ、丹後国を織田家の支配下に置く。

信長に背いた荒木村重松永久秀らの討伐に貢献。

この頃斎藤利三を家老に迎える。

丹波国一国29万石を与えられる。

丹後国細川忠興大和国筒井順慶らを指揮下に置き、織田家の近畿方面司令官となる。

福智山城(福知山城)を築城。

●謀反
1582年 (55歳)
織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務める。

毛利方と対峙していた中国方面司令官の羽柴(豊臣)秀吉から出馬要請を受けた織田信長が、大軍を派遣することを決定。この中に光秀の名もあった。

居城、亀山城(亀岡城)に戻り出陣の支度を整える。

軍を京都に転進させ、織田信長のいる本能寺を急襲。(本能寺の変

与力である娘婿細川忠興やその父細川幽斎(藤孝)、さらには筒井順慶から支持を受けられず孤立。

中国から大返ししてきた羽柴(豊臣)秀吉と、摂津国山城国の国境山崎で対決し敗戦。(山崎の戦)。

敗走途上小栗栖の竹藪で落人狩にあい死没。
死没1582年7月2日(天正10年6月13日) 享年55歳
レクイエム(信長を裏切った理由については、本能寺の変で考察していますので参照ください)

1582年には死んでおらず、延暦寺に逃げ込み僧となり、天海として生きながらえたという説もある。

戦国時代すべて

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毛利元就の年表

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毛利元就もうり もとなり
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誕生1497年(明応6年)
生誕地安芸国 吉田郡山
毛利弘元
生母:福原氏、養母:杉大方(父、毛利弘元の側室)
幼名松寿丸
元服名多治比少輔次郎元就、もしくは毛利少輔次郎元就
官名治部少輔、右馬頭、陸奥守
近親など正妻:吉川国経の娘(妙玖)
兄:毛利興元
弟:相合元綱など
子:毛利隆元吉川元春小早川隆景、穂井田元清、小早川元総(毛利秀包)など
孫:毛利輝元など
ゆかりの地 安芸国 多治比猿掛城
 安芸国 吉田郡山城
略歴●小領主の子
1497年 (1歳)
安芸国吉田郡山城主で、毛利広元の子として生まれる。

1500年 (4歳)
父、毛利広元が隠居し兄の毛利興元が家督を継ぐ。

父、毛利広元に連れられ吉田郡山城の支城、多治比猿掛城に入る。

1506年 (10歳)
父の死去により、多治比猿掛城主に。

家臣の井上元盛から所領を横領され、多治比猿掛城から追われる

1507年 (11歳)
元服。

●兄の死
1516年 (20歳)
兄、毛利興元が死没し、興元の子、幸松丸が毛利家の家督を継ぐ。
元就は若年の幸松丸を後見。

●西国の桶狭間
1517年 (21歳)
その隙をついて、出雲国尼子氏の後ろ盾を得た武田元繁に攻められるが、元就が初陣し、敵の先鋒、熊谷元直に勝利。(有田中井手の戦

●尼子氏
その後、尼子氏の圧迫が強まったため、周防国などの太守、大内氏から離反し尼子氏に寝返る。

●家督相続
1523年 (27歳)
大内氏の安芸国侵攻を受けるが、鏡山城の攻防戦で謀略を用いて勝利。(鏡山城の戦)

甥で毛利家当主の幸松丸が死没、元就が家督を継ぎ、吉田郡山城主に。

1525年 (29歳)
●再び大内氏
尼子氏の重臣、亀井秀綱の家督介入などにより、反元就派が元就の弟、相合元綱を担ぎ謀反を起こすが、元就はこれを殺害。

その後、尼子氏を離反し、再び大内義興の傘下に入る。

1528年 (32歳)
大内義興が死没、大内義隆が大内氏を相続。

1529年 (33歳)
母方の実家である高橋家の反対派、高橋興光を殺害し粛清。

その後、国内の有力な豪族、熊谷氏や天野氏と通じ地盤を固める。

1541年 (45歳)
出雲国尼子晴久率いる3万に吉田郡山城を攻められるが、3千の兵で籠城。大内義隆が派した陶晴賢の救援もあり守りきる。(吉田郡山城の戦

大内義隆と協力し佐東銀山城を攻め、安芸武田氏を滅ぼす。

●独立
1542年 (46歳)
大内義隆に従い月山富田城尼子晴久を攻めるが敗退、これを受け大内傘下からの独立を画策し始める。(月山富田城の戦(第一次)

二男の松寿丸(吉川元春)を吉川氏の養子に送り込む。

三男の徳寿丸(小早川隆景)を小早川氏の養子に送り込む。

●安芸国平定
1550年 (54歳)
この頃までに、元春と隆景を養子先の当主に据えることに成功。
これにより安芸国一国、さらには石見国備後国の一部も支配下におく。
(毛利両川体制)

毛利家中で幅を利かせていた井上元兼とその一党を殺害。

●陶氏との対立
1551年 (55歳)
大内義隆を謀反で殺害した陶晴賢と、領土問題から敵対するようになる。

謀略(内通を約する偽書状)を駆使し、陶晴賢にその参謀、江良房栄を殺させ、陶氏の兵力を低下させる。

1555年 (59歳)
言葉巧みに厳島に陶晴賢を誘い込み、村上武吉の水軍を味方につけ戦い勝利。(厳島の戦

●周防国
1557年 (61歳)
勝山城の戦で陶晴賢の傀儡であった大内義長を自害させ、大内氏を滅ぼす。
これにより周防国長門国の大部分も支配下に。

隠居し、嫡男毛利隆元に家督を譲る。

1561年 (65歳)
三村家親が平定した備中国を支配下に。

1562年 (66歳)
石見国の石見銀山を支配。

1563年 (67歳)
嫡男、毛利隆元が死没。
隆元の嫡男、毛利輝元に家督を継がせる。

●出雲国
1566年 (70歳)
月山富田城を攻め尼子義久に勝利。尼子氏を滅亡させる。
第二次月山富田城の戦

これにより、出雲国伯耆国を手中にし、毛利に従った備中国美作国備前国の諸豪族の支配地を含め中国の大部分120万石の支配者に。

1568年 (71歳)
宇都宮豊綱・一条兼定らに攻められた伊予国の河野通宣を救援。(伊予出兵)

1569年 (73歳)
筑前国博多の支配権をめぐり、大友宗麟と対立。(立花城の戦
一旦は立花城を手に入れる。

尼子の残党山中鹿之介に担ぎ出された尼子勝久出雲国伯耆国を奪回されたため九州から撤退。

1570年 (74歳)
布部山の戦で尼子勝久に勝利し、再び出雲国伯耆国を支配下に入れる。

1571年 (75歳)
吉田郡山城で死没。
死没1571年(元亀2年)6月 (享年75歳)
レクイエム巧みな謀略を使い、安芸の小大名から中国地方を席巻するまでにのし上がった知将である。

その死に際し、3人の息子に説いた、「毛利の三本の矢」の逸話は有名だがイソップ物語からとった創作との説もある。。

ただ、太守である尼子氏や大内氏の衰亡を目の当たりにしてきたことから、決して天下を望んではいけないと、息子たちを手紙で戒めたのは事実で、このことが後の関ヶ原の戦において、西軍の総大将に担ぎ出された嫡孫、毛利輝元を自重させる原因のひとつにもなった。

太田道灌の年表

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築城の名手だった扇谷上杉家の名家宰
太田道灌おおた どうかん
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誕生1432年(永享4年)
生誕地 
太田資清(道真)
長尾景長の娘
幼名鶴千代
元服名太田資長(持資とも)
上杉憲当、光徹(入道名)など
官名従五位下、備中守、従五位上、左衛門少尉、左衛門大夫
近親など子:太田資康
ゆかりの地 武蔵国 河越城
 武蔵国 江戸城
略歴1432年 (1歳)
扇谷上杉家の家宰、太田資清の子として生まれる。

その後、鎌倉五山や足利学校で教育を受ける。

1438年 (7歳)
永享の乱。

●享徳の乱
1454年 (24歳)
関東管領の上杉憲忠が、鎌倉公方の足利成氏(後の古河公方)に暗殺されたことから関東を二分する大乱に発展。(享徳の乱)

その後、父、太田資長(道真)が、関東管領家の補佐役に。

●家督相続
1456年 (25歳)
父、太田資長(道真)から家督を相続。

1457年 (26歳)
武蔵国河越城を築城。主君上杉定正が居城とする。

武蔵国江戸城を築城し、古河公方方の千葉氏へ対する。

古河公方に対するために、京都より将軍の弟、足利政知が派遣されるが箱根の坂を超えられず伊豆国堀越にとどまる。(堀越公方

1466年 (35歳)
主君で、関東管領の上杉房顕が死没、養子の上杉顕定が関東管領家の家督を相続。

1471年 (40歳)
古河公方足利成氏が、小山氏、結城氏らを率いて伊豆国堀越公方攻めに向かうがこれを撃退し、さらには古河城も落とす。

1472年 (41歳)
古河公方足利成氏に、古河城を奪回される。

●長尾景春の乱
1473年 (42歳)
関東管領家の家宰、長尾景信の死後、後継者問題が起こる。
(長尾景春の乱)

1476年 (45歳)
駿河国の今川家の後継者争いに介入、駿河国へ出兵するが、北条早雲との話し合いにより問題解決、撤兵。

長尾景春が古河公方と結んで武蔵国鉢形城で挙兵、関東管領の山内上杉顕定は、拠点、五十子の陣を攻められ大敗。
これにより多くの武蔵国の国人衆が古河公方に寝返る。

1477年 (46歳)
この対策として、古河公方方の相模国の諸城を攻め落とし、さらに江戸城に近い豊島泰経、泰明兄弟の居城、石神井城を攻略。

用土原の戦(鉢形城の北方)で長尾景春に勝利するが、古河公方の援軍到来により撤兵。

塩売原の戦(上野国南部)で長尾景春と対陣するが決着はつかず。

1478年 (47歳)
鉢形城を攻め落とし、関東管領山内上杉顕定が入城。

武蔵国小机城を攻め落とし、相模国周辺の古河公方方の勢力を一掃。

境根原の戦で、古河公方の有力武将、千葉孝胤に勝利。

1479年 (48歳)
千葉孝胤と家督を争っていた千葉自胤を担ぐなど、千葉氏の相続問題を利用して房総半島の敵勢を一掃。

その後、千葉孝胤の反抗を受け、撤兵。

1480年 (49歳)
長尾景春の拠点、武蔵国日野城を攻め落とす。

1482年 (51歳)
古河公方と関東管領山内上杉顕定および扇谷上杉家の和議が成立。
(享徳の乱の終結)

●当方滅亡
1486年 (55歳)
主君の上杉定正に、相模国糟屋館に招かれ暗殺される。
死の間際道灌は、「当方滅亡」と叫んだとされる。
死没1486年(文明18年)7月 (享年55歳)
レクイエム上杉定正の暗殺劇は、享徳の乱の鎮圧に多大な貢献をした道灌が、将来実力による謀反を企てることを恐れての先制攻撃だったという説が有力。

当方滅亡とは、自分なくして扇谷上杉家に将来はない、という意味で、その

浅井長政の年表

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浅井長政あざい ながまさ
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誕生1545年(天正14年)
生誕地近江国 小谷城
浅井久政
井口守経の娘
幼名猿夜叉
新九郎、浅井賢政など
官名従五位下、備前守
近親など正室:平井定武の娘・お市の方織田信長妹)
子、万福丸、万寿丸
娘:茶々(淀殿)=(豊臣秀吉側室)、初(常高院)=(京極高次正室・常高院)、江(於江与)=(徳川秀忠正室)、くす
ゆかりの地 近江国 小谷城
略歴1545年 (1歳)
北近江の大名、浅井久政の子として生まれる。

●独立大名
1559年 (15歳)
父の浅井久政を隠居させ家督を相続。

服従していた南近江六角(義賢)承禎と対立。
六角氏から来ていた妻を離別。

1560年 (16歳)
初陣である野良田の戦で六角義賢を破り、北近江に独立。
その際援助を受けた越前国朝倉義景と同盟関係に。

●信長との同盟
1567年 (23歳)
美濃国を版図に入れた織田家と同盟。

織田信長の美貌の妹、お市の方を正室に迎える。

●信長への反旗
1570年 (26歳)
金ヶ崎の退き口織田信長を裏切り朝倉義景に味方)

織田信長、京都へ退却。(金ヶ崎の退き口

姉川の戦で敗北。

志賀の陣を経て織田信長と一旦和睦。

織田信長比叡山焼き討ち

1573年 (29歳)
小谷城の戦で、織田勢に本拠小谷城を攻められ父浅井久政が自害。

妻のお市の方や3人の娘を羽柴(豊臣)秀吉に引渡し、自害。
レクイエムお市の方の3人の娘は、後の歴史に重要な役割をすることになる。

3代将軍徳川家光の祖父にあたることから、約60年後、家光の奏請により従二位中納言を追贈された。
死没1573年9月26日(天正元年9月1日) (享年29歳)

田村清顕の年表

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一人娘を伊達政宗に嫁がせた
田村清顕たむら きよあき
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誕生????年(????年)
生誕地 
田村隆顕
 
幼名 
元服名 
 
官名 
近親など正室:於北(相馬顕胤の娘)
弟:田村氏顕
娘:愛姫
ゆかりの地 陸奥国磐城 三春城
略歴●田村氏
????年 (1歳)
陸奥国磐城田村の領主で三春城主、田村隆顕の子として生まれる。

●佐竹氏との抗争
1571年 (??歳)
常陸国佐竹義重の拠点、寺山城を攻める。

同時に佐竹義重から領内の滑津を攻められるが、重臣の田村月斎(顕頼)がこれを撃退。

1574年 (??歳)
父、田村隆顕が死没、家督を相続。

1574年 (??歳)
佐竹義重から領内の赤館を攻められるが、葦名盛氏らと連合しこれを撃退。

葦名盛氏、二階堂盛義らと敵対。

●孤立
葦名氏、白河氏、佐竹氏が和睦したことから、周囲のほとんどが敵対勢力に。

1576年 (??歳)
北方の安積郡へ侵攻し併呑。

1577年 (??歳)
葦名盛隆、二階堂盛義、岩城常隆に安積郡を挟撃されるがこれを撃退。

白河城を攻め落とす。

●伊達氏との婚姻
1579年 (??歳)
一人娘の愛姫を、出羽国羽前米沢城主、伊達輝宗の嫡男、伊達政宗に嫁がせる。

これにより、奥州に置ける勢力関係は、伊達・田村連合(米沢・三春)と、佐竹・葦名・白河・二階堂・岩城・石川らの連合(常陸・岩城・会津・白河・須賀川)に二分される。

その後、敵対勢力との抗争が激化。

1583年 (??歳)
小浜城主、大内定綱が連合軍側に寝返り、その討伐戦を繰り返すが敗北。

1584年 (??歳)
伊達政宗が伊達氏当主に。

1585年 (??歳)
伊達政宗の大内定綱攻めに参陣、勝利。

その際政宗は、小手森城内の大内氏の降兵や家人、約800人を撫で斬りに。

1586年 (??歳)
急死。後嗣がなく、相馬氏と伊達氏の介入を受けた跡継ぎ争いが起こるが、伊達政宗の推す甥の田村宗顕が当主に。
死没1586年11月19日(天正14年10月9日) (享年??歳)
レクイエム 

斎藤道三の年表

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謀略を繰り返して成り上がった美濃の蝮
斎藤道三さいとう どうさん
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誕生1494年(明応3年)
生誕地山城国 西岡
松波基宗
 
幼名峰丸
法蓮坊、松浪庄五郎、山崎庄五郎、西村官九郎正利、長井新九郎規秀、斎藤利政、斎藤道三 
官名左近大夫
近親など正室:奈良屋(油商人)の娘、小見の方(明智氏)
側室:深芳野(旧主、土岐頼芸の側室)など
子:斎藤義龍、斎藤義重、濃姫(帰蝶)織田信長正室)など
ゆかりの地 美濃国 稲葉山城(後の岐阜城
 美濃国 鷺山城
 美濃国 大桑城
略歴1494年 (1歳)
北面の武士、松波基宗の子として生まれる。

●仏門
1504年 (11歳)
京都の妙覚寺に入門、法蓮坊と名乗る。

●油商人
その後妙覚寺を出て、猿楽師一行に身を寄せるが、やがて油商人となっていた父にならい油商人になる。

●武家
行商先であった美濃国稲葉山城主長井長広の目にとまったことから仕えるようになる。

長広は自分の家臣の西村三郎左衛門尉の跡継ぎに推薦。これにより、西村官九郎正利と名乗る。

●クーデター
1527年 (34歳)
美濃国守護、土岐頼武の弟である土岐頼芸に進言してクーデターを起こさせ頼武を追放し、頼芸を守護に担ぎ上げる。これにより土岐頼芸の家老となり実権を握る。

稲葉山城(後の岐阜城)に本拠を置く。

1528年 (35歳)
土岐頼芸の愛妾、深芳野をもらいうける。

1530年 (37歳)
自分を見出してくれた長井長広に疎まれるようになると、頼芸を抱き込んで長広を殺害、さらに長井家を乗っ取り長井新九郎規秀と名乗る。

1538年 (45歳)
美濃国の守護代斎藤利隆が死ぬと、規秀は斎藤家を相続し、斎藤利政と改名。

●美濃国盗り
1542年 (49歳)
今度は主家である土岐頼芸を攻め一時追放するが、その後和睦。
大桑城の戦(第一次)

1547年 (54歳)
大桑城の土岐頼芸を攻め追放し、美濃国守護となる。

1548年 (55歳)
隣国尾張国織田信秀と争うが、不利になると娘の濃姫(帰蝶)を織田家の嫡子織田信長に嫁がせ和睦。
また、嫡子斎藤義龍に家督を譲り隠居。斎藤道三と名乗る。

鷺山城を居城とする。

1551年 (58歳)
大桑城に戻っていた土岐頼芸を再び攻め、近江国に追放。

●息子との対立
1556年 (63歳)
息子の斎藤義龍に攻められ、廃城となっていた大桑城に入る。婿である信長の救援を待たず自害。(長良川の戦

義龍は、自分が道三の実子ではなく、道三が追放した土岐頼芸とその側室だった深芳野との子だと信じ込み、父の仇として道三攻めを行った。
しかし、道三の実子であった可能性もある。
死没1556年(弘治2年)5月 (享年63歳)
レクイエム謀略を繰り返して自分の主人を次々に殺害、追放し、一介の油商人から美濃国一国の大名になった道三は、美濃の蝮と呼ばれた典型的な戦国大名である。

道三は、婿の信長に対しては好意を持っていた。
愛娘の帰蝶の夫ということもあったであろうが、信長が将来天下を狙うほどの器であることを見抜いていたためでもある。

死ぬ直前、息子の義龍から攻められて危機に陥ると、当然救援に向かって来るであろう信長を慮(おもんばか)って、早々に自害して果てた。

油商人山崎庄五郎としての正妻と、西村官九郎そしての正妻とを持っていた。今でいう重婚である。
その他に主人の頼芸から貰い受けた深芳野という側室がいたわけである。

こういったあまりにも波乱に富んだ人生だったことから、実はふたりの人物の人生を合わせたものである、という説もあるほど。

大桑城を攻めて旧主を追放した道三だったが、自分の最後の城も大桑城だったとは、皮肉である。

柴田勝家の年表

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柴田勝家しばた かついえ
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誕生1522年(大栄2年)
生誕地尾張国
 
 
幼名 
柴田権六(権六郎)
官名修理亮など
近親など正室:お市の方織田信長妹)
養子:柴田勝豊など
ゆかりの地 近江国 長光寺城
 越前国 北ノ庄城
略歴尾張国織田信秀の家臣だった。

1551年 (30歳)
信秀死後、林通勝らとともに、信長ではなく弟の織田信行を織田家の跡取に推すが叶わず。

1556年 (35歳)
織田信長を廃し、信長の弟織田信行を擁立するために、林通勝や林通具と兵を起こすが敗北。(稲生の戦

●信長の筆頭家老
その後、再度信行が謀反を画策していることを織田信長に知らせる。

その後の戦ではことごとく貢献し、鬼の権六と恐れられる。

その後、織田信長の筆頭家老となる。

1568年 (47歳)
信長の上洛戦に従軍。

1570年 (49歳)
琵琶湖南岸に進出していきた六角承禎(義賢)に対するため、長光寺城に入城。
水の手を絶たれながらも六角勢を撃退。(長光寺城の戦)

野田・福島の戦

志賀の陣

1571年 (50歳)
第一次伊勢長島攻めで苦戦し、退却戦で負傷。

1573年 (52歳)
小谷城の戦に従軍。

第二次伊勢長島攻めに従軍。

●越前
1575年 (54歳)
越前国朝倉義景攻めに従軍。

越前国に起こった一向一揆に対し、7万の兵を率い総大将として出陣し攻略に成功。

越前国(49万石)の支配を任せられる。

北ノ庄城を築城し、居城に。

前田利家佐々成政佐久間盛政金森長近などを配下に、織田家の北陸方面司令官として、越後国の上杉に備える。

●加賀・能登・越中へ
1577年 (56歳)
手取川の戦加賀国)で上杉謙信に敗北。

1578年 (57歳)
上杉謙信
が死没。
これにより加賀国能登国越中国の攻略を強化。

1580年 (59歳)
一向一揆の重要拠点、金沢御堂を攻略。

1581年 (60歳)
能登国を平定し、与力の前田利家が信長から能登国を与えられる。

1582年 (61歳)
上杉家の影響下にあった加賀一向一揆を、与力の佐久間盛政らが平定。

与力の佐久間盛政が、信長から加賀国を与えられる。

越中国魚津城の戦で、上杉氏に勝利。

これらにより越前国加賀国能登国越中国を支配下に入れ、越後国上杉景勝に迫る。

●信長の死・秀吉との対立
本能寺の変で主君信長を失い、清洲会議羽柴(豊臣)秀吉に織田家での主導権を握られ、これをきっかけに秀吉と対立。

信長の妹で、浅井長政の未亡人お市の方を正妻に。

1583年 (62歳)
秀吉との決戦賤ヶ岳の戦で、重臣で甥の佐久間盛政の深追いがたたり劣勢となり、越前国へ退却、その際与力の前田利家にも裏切られる。

秀吉勢に本拠北ノ庄城を攻められ、妻お市の方とともに壮絶な自害。
レクイエム長光寺城の戦で、六角勢に水の手を絶たれた際、逆に水瓶(がめ)を割りわずかに残っていた水を捨てることで、城兵の士気を高め勝利に導いたと言う。
これにより、瓶割り柴田と呼ばれるようになった。

鬼の柴田は、後輩の秀吉の配下に甘んじるよりは潔い死を選んだ。

辞世は。「夏の夜の夢路儚き(はかなき)後の名を雲井にあげよ山不如(ほととぎす)」
死没1583年6月14日(天正11年4月24日) (享年62歳)

壇ノ浦の戦い

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壇ノ浦の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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壇ノ浦の戦い交戦勢力指揮官戦力損害
AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen.jpg
『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵
戦争治承・寿永の乱
年月日:元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日
場所長門国赤間関壇ノ浦 (現下関市
結果:源氏軍の勝利、平家滅亡
Sasa Rindo.svg源氏Ageha-cho.svg平氏
Sasa Rindo.svg源範頼(陸)
Sasa Rindo.svg源義経(海)
Ageha-cho.svg平宗盛
Ageha-cho.svg平知盛
船数:830艘 (3000艘とも言われている)船数:500艘 (1000艘とも言われている)
不明壊滅
治承・寿永の乱
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

背景[編集]

寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇三種の神器を奉じてを落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島長門国彦島山口県下関市)に拠点を置いた。
鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が進まなくなった。この状況を見た義経後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した[1]元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。
一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。

合戦の経過[編集]

鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。そのため信憑性には難があるものの『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語を基に巷間で信じられている合戦の経過を述べることになる。
また、以下の経過は大正時代黒板勝美東京帝国大学教授が提唱して以来、広く信じられている潮流説に基づいている。

魚津城の戦い

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魚津城の戦うおづじょうのたたかい
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西暦1582年
和暦天正10年3月
写真
魚津城跡
場所 越中国 魚津城
 越中国 松倉城
 越中国 天神山城
周辺図 
概要●謙信の死と越中国
1578年の上杉謙信の死は、織田信長包囲網の瓦解を招いた。
謙信なき越後国では、後継者争いにより国が二分し、謙信の上洛を信じて畿内で信長に反旗を翻した松永久秀荒木村重ら大物も駆逐され、10年もの間抵抗してきた大坂の石山本願寺も1580年の夏、信長に降伏(和睦)したのである。

この時点で主な反信長の勢力としては、甲斐国、信濃国などの武田勝頼と、中国の毛利家が残るだけとなった。

武田に対しては同盟者の徳川家康が、毛利に対しては羽柴(豊臣)秀吉が、それぞれ当たり、北陸方面を担当する柴田勝家も、内紛のざわめきが消え切らない上杉家攻略を進め、加賀国能登国から越中国へと勢力を伸ばし、1581年には佐々成政と、元上杉家臣で織田家に属した神保長住とに、越中国を2分し支配させた。

佐々成政は富山城を居城とし、大改築を行う。

そして織田勢は、1582年3月、越後国との国境に近い魚津城へ迫った。

●富山城
そんな中、神保長住が入城して守っていた富山城(城主は佐々成政)が、上杉家に味方する小島職鎮に急襲され奪われるという事件が起こった。

これにより織田軍は後方を脅かされることとなったが、柴田勝家は総勢1万の兵を富山城に差し向け瞬く間に奪い返すと、すぐさま反転再び魚津城へ向かった。

一旦上杉方に捕らえられた神保長住はこの事件で失脚、佐々成政越中国一国が任されることになった。

●魚津城
魚津城は、富山湾の東部の平野部に、海に面して築かれた平城で、上杉方の中条景泰を守将とする5千の兵が篭っていたが、総大将柴田勝家をはじめとして、前田利家佐々成政ら織田勢が包囲した。総勢3万とも4万とも言われている。

魚津城からの援軍要請を受けた春日山城上杉景勝だったが、武田勝頼甲斐国で攻め滅ぼした織田勢が信濃国上野国にも溢れ、いつ越後国を窺うかわからない状況だったことや、織田に味方し反乱を起こした(新発田重家の乱新発田重家に対する防備もあって、出陣は織田軍の包囲から2ヶ月近く経ってからであった。

織田勢は大鉄砲による城への攻撃を含め、徹底的な攻城戦を展開、上杉景勝春日山城を出陣した二日後の5月6日には、すでに二の丸も攻略した。

そして5月26日、魚津城の支城、松倉城から上杉勢が撤退、また信濃国森長可上野国滝川一益ら織田勢が本拠春日山城への総攻撃を始めるという報に、上杉景勝も入城していた天神山城から撤退し春日山城へ向かったことから、敵中に孤立した魚津城は6月3日に落城、吉江宗信、安部政吉、山本寺孝長、吉江景資、吉江資堅、寺島長資、蓼沼泰重、石口広宗、若林家長、亀田長乗、藤丸勝俊、中条景泰、竹俣慶綱の12人の上杉方の守将は自害した。

●どんでん返し
魚津城の落城により、越中国は完全に織田家の支配するところになるはずであったが、織田勢はすぐに越中国から撤退し、領国である加賀国能登国越前国へと退いて行った。
6月2日起こった本能寺の変の急報を受けたためである。
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