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Channel: ウオーキング。歴史。中路正樹
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ソース焼きそば

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ワインと一緒に絶品おつまみ毎日食べたいおしゃれレシピ♪クリスマス準備のコツを伝授!

ソース焼き飯

ソース焼き飯
彼が好きな簡単お夜食。
究極の節約ご飯らしいですヽ(・ω・)ノ

材料 (1)

ご飯
茶碗1~2杯
ウィンナー
3本
1個
☆調味料☆
塩コショウ
少々
お好みのソース
適量

1

フライパンに多め油をひき、煙が出るほどしっかりと温める。

2

ウィンナーをさっと炒めたらご飯を入れ、ソースを適量入れる。(うちは2~3まわし程)

3

ソースが充分に絡んだら、塩コショウで味の調整をする。

4

焼き飯を中央に寄せ、真ん中を空けておく。(ドーナツみたいな形に)お焦げができるまで置く。

5

仕上げに真ん中に卵を入れ、お好みの硬さになるまで焼く。完成です(「・ω・)「

コツ・ポイント

お上品ではないですが、フライパンのままで食べると美味しいです。卵をおとしてすぐご飯とまぜまぜ。余熱でいい感じに卵が出来て

東大寺

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金堂(大仏殿)[編集]

 

国宝。当初の大仏及び大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。
聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。治承4年(1180年)の平重衡の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は重源の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久6年(1195年)には大仏殿の上棟供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の松永・三好の合戦によって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。
現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。江戸時代にはすでに巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。なお、しばしば「世界最大の木造建築物」として言及されるが、20世紀以降に近代的工法で建てられた木造建築には、大仏殿を上回る規模のものが存在する(秋田県の大館樹海ドームなど)。
大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。堂内には他に明治42年(1909年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型がある。
  • 大仏(盧舎那仏像)
国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートルである。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏である。盧舎那仏は「蓮華蔵世界」(『華厳経』の説く世界観)の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを象徴する仏である。
  • 木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重文)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。
  • 金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿の正面に立つ燈籠。総高464センチ。たびたび修理されているが、基本的には奈良時代創建時のものである。火袋羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出する。4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、東北面と東南面はレプリカである。東北面の羽目板は1962年に盗難に遭い、直後に発見されたが、その後はオリジナルは別途保管し、燈籠にはレプリカを取り付けている。東南面の羽目板のオリジナルは早くに紛失した。[6]

大笑いの神様花菱アチャコ

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花菱アチャコ

大笑いの神様花菱アチャコ
 
 
花菱アチャコ本名生年月日没年月日出身地コンビ名立ち位置事務所
藤木 徳郎
1897年7月10日
1974年7月25日(満77歳没)
福井県
エンタツ・アチャコ
吉本興業
花菱アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日 - 1974年7月25日)は、大正昭和期の漫才師俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県出身。

来歴[編集]

福井県勝山市の生まれ、生家は法沢寺というお寺であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。その後奉公などに出ていたが遊芸に興味を持ち1913年に15歳で新派山田九州男山田五十鈴の父)の一座に入り東明幸四郎と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し「花菱アチャコ」を名乗り菅原家千代丸と組む。1919年に一度だけ横山エンタツと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わり、客からはみかんの皮を投げられるほどであった。
1925年吉本興業に入社し、浮世亭夢丸千歳家今男とコンビを組む。1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。1934年中耳炎にかかり入院、その間にエンタツは林正之助等との相談で上でコンビを解消する。エンタツは杉浦エノスケと組む。退院後は舞台では千歳家今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。
第二次世界大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するが、1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際(アチャコも新興から契約金として当時としては大金である500円を既に受け取っていたが、林正之助に一喝されてそれを新興に返したという)、アチャコは吉本から「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一筆取っていたため、唯一の例外として吉本興業との専属契約継続を認められた。結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることになる。
戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。
1952年長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』も人気を博し、これも映画化された。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」や「さいなもうー…」の台詞で一世を風靡した。
1963年にNHKで放映された「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」(構成:小林信彦)において、エンタツと久しぶりにコンビを組んで漫才を披露したが、ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮した。
1974年7月25日直腸癌のため死去。77歳没。戒名は阿茶好院花徳朗法大居士。
芸名の「花菱」は、生家の家紋が由来である。「アチャコ」は、「鬼笑会」に所属してまだ無名だった頃、幕切れに先輩役者の「アッ!」の合図で「チョン!」と拍子木を打つ際に上手くいかず、先輩役者からつけられたあだ名「アチョンの子」が転じたものである。「コ」の字がつくために、名乗り始めたころはよく女性と間違われた。

弟子など[編集]

弟子には、粋曲漫談のれん太郎、漫談の鶴乃一声、三五郎、岡八朗、石川大介(付き人)、石川寿子(付き人)、西川花助(付き人)などがいる。
かつて、実質の孫弟子(岡八朗の弟子)「オール阪神・巨人」に「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせるという話があったが、オール阪神・巨人側が「おそれ多い」と断った。
孫のアチャマゴ久利(藤木久利)はミュージシャンで、「アチャコ一座」というバンドを結成して活動している。また、大阪市中央区高麗橋に、1952年からアチャコの妻が経営していた店は現在は孫がたこ焼き屋「ACHAKO」として経営中。

小笠原新島。西之島合体か

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小笠原
新島と西之島合体まじか。
 
<小笠原諸島>「新島」成長続く 年内にも西之島と「合体」か

発見から1カ月が経ち、当初より面積が大きく拡大している小笠原諸島・西之島近くの新島(右)。(写真の左が北方向)=東京都小笠原村で2013年12月20日午後0時37分、本社機「希望」から手塚耕一郎撮影

(毎日新聞) 20日21時54分配信

関連リンク

◇年内にも西之島と合体か
<小笠原諸島>「新島」合体、あと100m…成長続く -毎日新聞(12月20日)

伊達政宗

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伊達政宗

 
伊達 政宗時代生誕死没別名神号戒名墓所官位主君藩氏族父母兄弟妻子
Date Masamune02.jpg
伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆)
数少ない隻眼で描かれた肖像画。
戦国時代から江戸時代前期
永禄10年8月3日1567年9月5日
寛永13年5月24日1636年6月27日
幼名:梵天丸、仮名:藤次郎
武振彦命
瑞巌寺殿貞山禅利大居士
瑞鳳殿青葉神社
従五位下左京大夫侍従越前守
従四位下右近衛権少将陸奥守
正四位下参議従三位権中納言
従二位
豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
家光
陸奥国仙台藩
伊達氏
父:伊達輝宗、母:義姫最上義守の娘)
政宗小次郎(政道)、秀雄、千子姫
正室:愛姫
側室:新造の方飯坂の局(松森御前)ほか
秀宗忠宗宗清宗泰宗綱宗信
宗高、竹松丸、宗実宗勝亘理宗根
五郎八姫牟宇姫岑姫千菊姫津多
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国陸奥国戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

生涯[編集]

小室達作(第2代)伊達政宗騎馬像(仙台市・仙台城本丸、2004年10月撮影)

幼年期[編集]

永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で生まれた。幼名は梵天丸。天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが[1]、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。天正7年(1579年)には仙道の戦国大名であった三春城田村清顕の娘愛姫を正室とする。天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。

家督相続から摺上原の戦いまで [編集]

天正12年(1584年)10月に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けた。

額田王

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額田王

 
額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代日本皇族歌人天武天皇の妃(一説に采女)。
額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが額田女王額田姫王(『日本書紀』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。係累他[編集]
『日本書紀』には、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫という[1]。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。
出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。
『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また、表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[2]
十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。特に
  • 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
  • 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが池田弥三郎山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来こちらの説も有力視され学会では通説となっている[要出典]。晩年の王の歌としては持統天皇吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり行幸の時期から推測して60代前後までは確実に生存していたと推測されている。
なお岡部伊都子梅原猛らは談山神社所蔵の「栗原寺三重塔伏鉢」(国宝)銘文に見える「比売朝臣額田」について臣籍降下した額田王の改名とする説を唱えている。史料がないので真相は不明だが王族のはずの額田王が朝臣姓を賜っている点はやや不審でありもしこの説が正しいとすると額田王は当時藤原氏一族の有力者であった藤原大嶋と再婚し80歳近くまで生きていたことになる。

俗説[編集]

額田王が絶世の美人であったというのは小説などでは通説となっている。しかし額田王に関する記述がごく限られている以上その容貌について物語る史料があるわけではない。梶川信行(『創られた万葉の歌人 額田王』)によれば彼女の容貌については上田秋成の『金砂』が早い例だという。つまり上記の三角関係を想定させるような歌から彼女自身のイメージが後附けされたものとの説である。この三角関係についても富士谷御杖(『萬葉集燈』)・伴信友(『長等の山風』)の発言など江戸時代のものが早いと思われる。「伝説」は根強いものでもあるようで額田が美女であるとの根拠はないとの発言をしたところ聴衆から食ってかかられたこともあると梶川は述べる。これに類する逸話としては伊藤博も額田王について一般的にもたれているイメージは確証のあることではないという趣旨の講演をおこなったところ或る婦人に内容の撤回を求められたというものがある(『萬葉の歌人と作品』)。聖徳太子についても藤枝晃の講演をめぐって似通った逸話(大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』)があり歴史上の人物というものが史料からわかることと一般に知られる像との間におおきな開きがある例として注目される

宇治市。誓澄寺

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宇治市槙島町。誓澄寺
誓澄寺 (釣月山誓澄寺と言う)        
      浄土宗の寺  所在地:槇島町大幡18番地  
      創建は1300年(正安2年)  天竜寺を創建した夢窓疎石が創建した。元々は臨済宗の寺であった。足利第三代義満の時代に釣月庵の記述がある。後に宇治の蔵勝、伏見の指月と並んで「三勝の地」 に数えられた観月の名所であったという。  その当時の誓澄寺は現在の場所より約100m東にあったらしい。
      本尊  阿弥陀如来木造   本尊は比較的新しいが、脇仏に宇治市の文化財に指定された仏様が2体おられる。
      木像阿弥陀如来立像  宇治市指定文化財 平安時代の作 寄木造り 昔下村にあった宝蔵寺(宝増寺)から移安されたものらしい。12世紀の作風を示すものとして貴重とされる。
      木像観音菩薩立像    宇治市指定文化財 平安時代後期の作 一本造り 昔槇島町石橋にあった金剛寺から移安されたもの。平安時代末期の数少ない美作の1つ。 
      毘沙門像  正式には寶心毘沙門天と言う。  足利時代の終焉の地となった槇島城の守り神として誓澄寺の毘沙門堂に安置されている。四方を守護する四天王の一人、北方の守護神と言われる多聞天である。年に一度初寅の日(最近はその近くの日曜日に)に開扉し、お供えを盛り護摩木供養をする。同時に新春の書初め展も開催される。
      子授け地蔵  通称子授安産守地蔵、馬場の地蔵とも呼ばれていた。この地蔵菩薩はその昔志津川の浜で見出され、宇治上神社に祀られていたものが、明治時代になって誓澄寺に移された。ご開帳のおり、ご神体の中からもう一体仏様が現れ子授け地蔵として知られるようになった。地蔵菩薩の縁日である9月1日にはご開帳され、沢山のお供えをし、夜には子供達にお菓子が配られる。 この日は遠方からお参りされる方も意外と多く、中にはお礼参りをされる人もいる。

蛭子島神社

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蛭子島神社 宇治市槇島町石橋28

蛭子島神社 宇治市槇島町石橋28

蛭子島神社
門前に小倉小橋の碑があります。
 
小倉小学校校庭内に小倉小橋の碑
小倉大橋の碑は老ノ木公民館前に
巨椋神社南50mに小倉大橋の碑

宇治神社

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宇治神社

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宇治神社所在地位置主祭神社格等創建本殿の様式別名例祭
Uji-jinja torii.JPG
鳥居
京都府宇治市宇治山田1
北緯34度53分27.77秒
東経135度48分38.52秒
座標: 北緯34度53分27.77秒 東経135度48分38.52秒
菟道稚郎子命
式内社(小)
府社
不詳
三間社流造
離宮明神
5月8日6月8日
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宇治神社(うじじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社式内社で、旧社格府社。隣接する宇治上神社とは対をなしている。

祭神[編集]

祭神の菟道稚郎子(『前賢故実』より)
『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
本殿では、莵道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)を祀っている[1]

歴史[編集]

創建[編集]

創建年代などの起源は明らかではない。当社のすぐ近くには宇治上神社があるが(位置)、当社とは二社一体の存在であった[1]。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる[1]
宇治上神社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある[1][2]

概史[編集]

延喜式神名帳』には「山城国宇治郡宇治神社二座 鍬靫」と記載があり、「二座」はそれぞれ宇治神社・宇治上神社を指すとされている[1]。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を一座とすることは動かないものの、もう一座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする説がある[2]。のち、近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は当社は「下社」「若宮」、宇治上神社は「上社」「本宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された[1]
明治に入って宇治上神社とは分離し、それぞれ近代社格制度では府社に列した。

境内[編集]

本殿は三間社流造檜皮葺鎌倉時代後期の造営とされ、国の重要文化財に指定されている。
境外では、御旅所が京都府宇治市宇治1(位置)に所在する。

摂末社[編集]


主な祭事[編集]

文化財[編集]

重要文化財(国指定)[編集]

  • 本殿(建造物) - 明治35年7月31日指定。
  • 木造莵道稚郎子命坐像(彫刻) - 明治36年4月15日指定。

宇治市指定文化財[編集]

  • 白色尉面 1面(彫刻) - 安土桃山時代。昭和47年3月1日指定。
  • 木造狛犬 2躯(彫刻) - 鎌倉時代。昭和63年3月31日指定。

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス
周辺

菟道稚郎子

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菟道稚郎子

 
菟道稚郎子命から転送)
移動: 案内検索
莵道稚郎子続柄身位出生死去埋葬配偶者子女父親母親
莵道稚郎子.jpg
莵道稚郎子(『前賢故実』より)
第15代応神天皇皇子
皇太子
不詳
壬申
菟道宮
壬申年?
治定:宇治墓(丸山古墳、京都府宇治市
(記載なし)
(記載なし)
応神天皇
宮主宅媛
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菟道稚郎子(うじのわきいらつこ・うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申[注 1])は、古墳時代皇族(王族)。5世紀前半頃の人物と想定される[1]
第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇は異母兄にあたる。

概要[編集]

菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国宇治(現・京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記される。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。
 
 

系譜[編集]

古事記・日本書紀[編集]

(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 ・宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[原 10]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女・八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。
応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命・仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹・小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。
なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
 

先代旧事本紀[編集]

先代旧事本紀』では、饒速日命物部氏祖)の九世孫・物部多遅麻連(もののべのたじまのむらじ)の女・山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女・雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]
この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代との関係がうかがわれる宇治部氏・宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[9]

聖徳太子ゆかり寺院

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建立されている[22]

ゆかりの寺院[編集]

夢殿(法隆寺
ここでは、以下の寺院をいくつかとりあげる。
なお、日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した確実な寺院について「法隆寺と四天王寺だけである。」と述べている[23]
四天王寺
大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波四天王寺を建てた。『書記』によれば593年(推古天皇元年)のことという。なお、聖徳太子の佩刀とされる七星剣丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。
法隆寺(斑鳩寺)
奈良県生駒郡斑鳩町金堂薬師如来像光背銘によれば、法隆寺用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、若草伽藍の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。
斑鳩寺(播磨)
兵庫県揖保郡太子町。聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。
太子建立七大寺
四天王寺法隆寺中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
河内三太子
聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺野中寺大聖勝軍寺はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている[24]

墓所[編集]

聖徳太子墓(叡福寺
宮内庁により、大阪府南河内郡太子町叡福寺にある「叡福寺北古墳」が墓所に比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵しながりょう)。ただし、後世に定められたものとする説もある。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、 明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[25][26]

聖徳太子の家系

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系譜[編集]

天皇系図 26-37代
先祖
兄弟姉妹
妻子

刀自古郎女

橋寺(放生院)宇治市の寺院

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<宇治市> ・萬福寺 ・三室戸寺 ・興聖寺 ・宇治上神社 ・宇治神社 ・橋寺(法生院) ・橋姫神社 ・平等院 
橋寺(はしでら) 
真言律宗 雨宝山 放生院常光寺
京都府宇治市宇治東内
11
 橋寺は京阪「宇治駅」から宇治橋を渡らずに川を右に見て100メートルほど遡ったところにある。雨宝山と号する真言律宗のお寺で、寺名は放生院常光寺。宇治橋の守り寺とされることから、通称“橋寺”で知られている。
 由来書では、推古天皇12年(604)、聖徳太子の命により山背(京都)の北西部(太秦)を開墾したことで知られる秦河勝(はたのかわかつ)が太子の念持仏であった地蔵菩薩像を祀る常光寺地蔵院を宇治川畔に建てたのがはじまりという。後の大化2年(646)、大和(奈良)元興寺(がんこうじ)の道登(どうと)という僧侶により宇治川に橋が架けられた時、安全祈願のために地蔵院舎も造りかえられ、この時を創建したとするらしい。橋 は宇治橋といい、宇治川に架けられた最初の橋とされる。宇治橋は、宇治川の上流にあたる瀬田川に架かる「唐橋」(大津市)、そして現存しないが大山崎町と八幡市とを淀川を跨いで 架けられた「山崎橋」とともに、日本三古橋の一つである。架橋当時は、治水技術も十分でなく大雨のたびに洪水が起き度々流失していたという。地蔵院も次第に衰退している。
 鎌倉後期に入った後宇多天皇時代の弘安4年(1281)、大和(奈良)西大寺の僧侶であった叡尊(えいそん)が現在地に再興。このとき叡尊は、祀られていた地蔵菩薩像 の著しい損傷に心痛め、新たに大きな地蔵菩薩像を造り損傷した地蔵菩薩像をその胎内に収めたという。また叡尊は、弘安9年(1286)に行われた宇治橋の架け替えに合わせ、川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15メートルの十三重石塔を建たり、寺で盛大な放生会を営んだという。このことから寺名を「放生院」と称するようになったという。叡尊のこうした行いを褒め、後宇多天皇は300石の寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任されたことから、以後「橋寺」と通称されるようになったという。橋はその後も織田信長や徳川家康などによって架け替えられている。余談だが、宇治橋の中央部に上流側に突き出た部分がある。三ノ間と呼ばれ、秀吉が茶の湯の水を汲ませたところと伝えられている。また、橋の守護神・橋姫が祀られていたというが、現在橋姫は橋の西側(橋姫神社)に祀られている。
瀬田の唐橋と山崎大橋(現存せず)とともに三古橋の一に数えられた宇治橋境内に立つ「橋寺」の石柱覆屋に収められた宇治橋断碑 (重要文化財)
 橋寺の現在の本堂は、寛永八年(1631)の火災後に再建された建物である。安置されている高さ二メートルをこえる本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)は、弘安4年(1281)に叡尊(えいそん)が造った地蔵尊。また、脇壇には等身大の不動明王立像(重要文化財・平安期)と釈迦如来坐像(室町期)。また、光背が特徴的な阿弥陀如来坐像(江戸期)、弁財天女坐像(南北朝期)の像安置されている。境内には十二支の守り本尊像 や橋かけ観音石像。前庭の覆屋の中に「宇治橋断碑」が建っている。宇治橋断碑(うじばしだんび)は重要文化財。多胡碑(たこのひ)(群馬県)、多賀城碑(宮城県)とともに日本三古碑の一つ。寺の境内地中から発見されたのは江戸時代の寛政3年(1791)で、それも上部3分の1の断石。割れて地中に埋没した理由は不明である。断石は、天平時代に作られたものと推定され、27字。後に、鎌倉時代に編纂された歴史書「帝王編年記」に記されていた原文をもとに残部(下の部分)を補い、寛政5年(1793)に現在の姿に復元されたて、96字ある。文中には、「名は道登と曰(い)う。山尻恵満の家より出づ。大化2年丙午の歳、此の橋を構立す」と刻まれ、宇治橋の成り立ちを刻んだ石碑である。下部を継ぎ足したことから「宇治橋断碑」と呼ばれる。
十二支の守本尊を祀る小堂橋かけ観音石像叡尊が霊を慰めるために中洲(浮島)に建立した高さ約15メートルの十三重石塔
   
 宇治は大和と近江や山城を結ぶ要衝。中州(橘島)に建つ「宇治川先陣之碑」は、木曽義仲と源義経の戦いで、義経軍の梶原景季(かげすえ)と佐々木高綱との先陣争いの故事にちなんで建立された宇治橋西詰にある「源氏物語 」の作者紫式部の石像。宇治橋の中央部に造られた上流側に突き出た三ノ間は、守護神「橋姫」を祀った名残
◇橋寺の所在地など
・ 住所:京都府宇治市宇治東内11
・電話:0774-21-2662
・ 拝観:境内自由。但し(3/15~10/31は 9:00~17:00)、(11/1~3/14は 9:00~16:00)
     本堂および宇治橋断碑の拝観は寺務所へ申し出る(有料)。本堂300円・断碑のみ200円
・ 交通:京阪電車「宇治駅」から徒歩約4分

興聖寺

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興聖寺 (宇治市)

興聖寺所在地位置山号宗派本尊創建年開基中興年中興
Koshoji Uji Kyoto07n4440.jpg
本堂
京都府宇治市宇治山田27
北緯34度53分24.1秒
東経135度48分49.45秒
仏徳山
曹洞宗
釈迦三尊
天福元年(1233年
道元
慶安2年(1649年
永井尚政(中興開基)、万安英種(中興開山)
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庭園
興聖寺(こうしょうじ)は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院僧堂がある。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、宇治十二景の1つに数えられている[1]

歴史[編集]

道元から安貞元年(1277年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去って深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこととされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が行われ、観音導利興聖宝林寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽藍が完成していたとは考えられないとしている[2]
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である[3]

和歌山県の史跡

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和歌山県[編集]

和歌山県では、特別史跡1件を含む計26件が指定されている(2都道府県以上にまたがる史跡3件を含む)。

国指定[編集]

特別史跡
史跡

県指定[編集]

※和歌山県指定史跡については和歌山県指定文化財一覧#史跡を参照のこと。

宇治市の五カ庄許波多神社。木幡許波多神社

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許波多神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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許波多神社(こはたじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社である。式内社(名神大社)「許波多神社」の比定社であるが、宇治市内には許波多神社という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあり、それぞれ異なる社伝を伝える。旧社格はどちらも郷社。旧称柳大明神
延喜式神名帳では名神大社に列する。大海人皇子(後の天武天皇)や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられ、勝運を授かる神社として信仰されている。どちらの許波多神社も天忍穂耳命が祭神に加えられている。式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであることから、鎌倉時代の『釈日本紀』には「許波多神社に座す神は宗廟の神として、他と異にして尊崇すべきである」と記されている。永禄12年(1569年)には最高位の正一位の神階を受けた。
戦国時代、戦火により社殿のほとんどを焼失し、古伝も失われた。

五ヶ庄の許波多神社[編集]

許波多神社所在地位置主祭神社格等創建本殿の様式例祭主な神事
Gokasho Kohata shrine.jpeg
京都府宇治市五ヶ庄古川13
北緯34度55分0秒
東経135度47分38秒
瓊々杵尊
天忍穂耳尊
神日本磐余彦尊
式内社(名神大)・郷社
大化元年(645年)
流造
11月3日
星祭り(2月節分
天王・福島祭(9月23日
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天忍穂耳命のほか瓊々杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀る。
社伝では、大化元年(645年)、蘇我倉山田石川麻呂の奏上により、孝徳天皇中臣鎌足に命じて木幡荘に皇祖を祀る神殿を造営させたのに始まると伝えられる。当時は柳山の地に社殿があったことから「柳大明神」と呼ばれるようになり、江戸時代までは「柳神社」を正式の社名としていた。明治時代、陸軍宇治火薬製造所(現 陸上自衛隊宇治駐屯地)の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ、当社は御旅所であった旧岡田村内の現在地に遷座し、その際に社名を旧称の許波多神社に改称した。
平安時代後期の作とされる男女一対(馬頭天王弁財天)の神像が伝わるが、これは附属の寺で祀られていたものである。本殿には、鎌倉時代の作とされる天忍穂耳命の神像が祀られている。
かつて、社殿より続く東西2町の馬道で競馬(くらべうま)の神事が行われており、「競馬発祥の神社」とされている。当社に残る平安時代の(あぶみ)は重要文化財に指定されている。ほかにも、馬頭天王の神像があることから、「馬の神社」として競馬ファンや競馬関係者の信仰を集めている。

文化財[編集]

重要文化財
  • 本殿
  • 鉄宝相華孔雀銅象嵌半舌鐙(てつ ほうそうげくじゃく どうぞうがん はんじたあぶみ)一双、附:鉄舌長鐙 一双
府指定有形文化財
  • 男女神像 二体

外部リンク[編集]

許波多神社画像[編集]

宇治市旦椋神社

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山城(久世郡)の式内社/旦椋神社
京都府宇治市大久保町北山
祭神--高皇産霊神・神皇産霊神・菅原道真
                                                        


 宇治市史には
 「大久保の西方には小字名が旦椋と呼ばれる水田があり、条里制では二十二坪・二十三坪にあたっており、古川にも近い。
 居住が可能な自然堤防地帯の一画で、しかも、そこには小さな盛土が残っている。この盛土はもと旦椋神社が祀られていた旧地であり、まわりの自然堤防は、古代栗隈郷の故地と考えることもできる」
とあり、たわわに頭を垂れた稲穂の中に小島状に浮かぶ神社跡伝承地の写真が掲載されている(右写真-昭和40年代以前のものか)
旦椋神社跡伝承地
旦椋神社跡伝承地(宇治市史から転写)
 また、ネット資料が引用する旦椋神社旧跡の発掘調査結果には、
 「本社跡と呼ばれる旦椋神社の旧鎮座地とされている所の現状は、田の中に長径5.3m、短径3.6m高さ50cmの盛土が残っていた。発掘によって、草の繁茂した表土下に、20cmぐらいの大きさの川原石が平坦に敷かれていた。・・・表面近くから瓦片が出土することから、石敷きの上に小さな社がおそらく南面してあったと推定される」
とあるという。ただ、この発掘調査調査にかかわる調査主体・調査時期などの詳細は不明で、この調査から塚の存続年代を推測することは出来ない。

 今、当社の西・古川と国道24号線との間に“大久保町旦椋”の地名があり、その辺りが旧朝倉の地と思われるが、今、大久保町を含む周辺全域が市街地化して七塚も消滅しており、旧社地の確定はできない。

◎祭祀氏族
 当社にかかわる古代氏族について、宇治市史は
 「栗隈県の管掌には栗隈氏があたっており、後には久世郡の郡司となった・・・」
として、栗隈氏なる氏族を挙げている。
 ただ、新撰姓氏禄(815)に栗隈氏の名は見えず、正史上に見える栗隈氏関連記述として
 ・書紀・天智7年(668)2月条--(后の一人として)栗隈首徳万(クリクマノオビト トコマロ)の女(ムスメ)があり、黒媛郎(クロメノイラツコ)といった。水主皇女(ミヌシノヒメミコ)を生んだ
 ・同・天武12年9月条--栗隈首(オビト)・・・に姓(カバネ)を賜って連(ムラジ)とした
 ・続日本紀・称徳・神護景雲2年(768)9月条--正八位上の栗隈連広耳に外従五位下を授けた。私財を献じたことによる
 ・同・桓武・延暦3年(784)12月条--(長岡京造営に際して)外従五位下の栗隈連広耳は役夫に食料を与えて養ったので、従五位下を授けた
などがあるが、その出自などは不明。

 これらの記述からみると、栗隈屯倉から生み出された財力を背景に、朝廷と密接なかかわりをもった有力氏族と推測され(栗隈大溝の建設に関係した渡来系氏族ともいう)、そのことから、栗隈県の産土神的性格をもつ当社の創建・経営にかかわった可能性はあるが、それを証する史料はなく、今の当社に栗隈氏の関与を窺わせるものもない。

 なお上記以外に、天智7年に筑紫率(後の太宰帥:太宰府長官)に任じられた栗隈王(?--676)なる人物があり(天智7年条)、天武天皇即位前記には、壬申の乱(672)に際して、近江朝廷(大友皇子)からの出兵要請を、“太宰府の任務は外敵への備えである”として拒否したとある。
 この栗隈王は敏達天皇の曾孫で、橘諸兄(橘氏の祖)の祖父とされる人物で、太宰帥には従三位相当の政府高官(大納言級)が任命されたことからみて、栗隈を名乗るものの、上記栗隈連とは無関係であろう。
※祭神
 今の祭神・高皇産霊神(タカミムスビ)・神皇産霊神(カミムスヒ)・菅原道真のうち、菅原道真は合祀されている天満天神宮の祭神であることから、式内・旦椋神社の祭神

 タカミムスヒ・カミムスヒは、天と地が始めて別れたとき、高天原に成りでた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・タカミムスヒ)のなかの2柱で(古事記)、記紀によれば、タカミムスヒはアマテラスとともに高天原の中心神として国譲り使者の派遣・天孫降臨を指令したとされ、一方のタカミムスヒは神産巣日御祖神(タカミムスヒミオヤ神)として主に出雲系神話のなかに登場する神で、わが国神統譜の始原に立つ神々といえる。

 一方、両神共通の神名・“産霊”(ムスヒ)の“ムス”が“生成発展”を意味し、“ヒ”が“霊”であることから、ムスヒ神とは“万物を生みだし成長成熟させる神秘な力をもつ神”と解釈される。
 アマテラスが天岩屋に隠れたとき、カミムスヒが御子のオモイカネ神に命じて祭祀を執り行わさせて大神を呼び戻し(再生)、カミムスヒが、オオナムチ(大国主)が兄神達に殺されたとき、キサガイヒメ等を遣わして蘇生させたというのも、ムスヒの神がもつ生成・再生の神としての神格を示している。

 この生成・成熟の神ということは、穀物の発芽・成熟を司る穀神・穀霊にも通じることで(穀神は秋に死んで春に蘇る-再生する)、宇治市史が“当社は、屯倉(校倉)における穀霊を祀ったのが始まり”というのは的を得た解釈といえる。 

 
※社殿
 広い境内を南北に分ける道の北側、参道の途中に古びた四脚門があり、その奥、境内中央に拝殿(コンクリート入母屋造・瓦葺)が、その奥、透塀に囲まれた中に朱塗りの本殿が鎮座する。

 
旦椋神社/社頭
旦椋神社・社頭
旦椋神社/鳥居
同・鳥居
旦椋神社/拝殿
同・拝殿
旦椋神社/本殿
同・本殿
旦椋神社/本殿正面
同・本殿正面

神の家系図

宇治市。願行寺

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宇治市願行寺
 


木造阿弥陀如来坐像、説明板より。

木造阿弥陀如来立像、説明板より
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